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アート・アトランダム⑫ 完璧な暗闇で目をつむる       秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
12 /27 2010
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完璧な暗闇のなかで目をつむる
── 一年間の取材を終えて
 
                                     秋亜綺羅


芸術と呼ばれるものは錯覚をつくり出す行為なのでしょう。 紙の上には絵具が乗っかっているだけなのに、「いい富士山ですね」 とか言ったりします。 舞台やスクリーンの上では、 日常とはべつの時間が進行しています。
八月号で紹介させてもらった、 丹野久美子と秋亜綺羅のカクテル・ポエムだけど。 あらかじめパネルに貼られた仙台市の地図…。 観客全員に、 自分の住む地点に、 画びょうを一個ずつ押してもらいました。 詩の朗読が始まると完全暗転になり、 地図が貼られた壁は、 観客の数だけの星空になりました(写真)。 画びょうに夜光塗料を塗っていたわけです。

会場にかすかな光でも漏れていれば、 夜光塗料の星座は時間とともに、 どんどん小さく薄くなっていきます。 人間の目が暗さに慣れてくるからです。
 ところが 「完璧な暗闇」 だと、 星は逆にどんどん大きくなり、 輝きが増すばかりです。 人間の目が慣れるものは、 夜光塗料の星以外になにもないからです。

 
  完璧な暗闇で目をつむると
  水溶性の映画がやってくる
  世界でいちばん明るい場所がそこにある
  
  完璧な暗闇で目をつむると
  想い出も、 未来も
  どんどん大きくなるんじゃないだろうか
 
読者には迷惑なコラムだったでしょうけれど、 楽しい一年でしたよ。 八戸では吉増剛造に会えたし。 東京へは二回。 豊島重之と小鹿夏に会いました。 石川舜のアトリエには何度も邪魔しました。 ほかの方々にも、 直接会って意見を交わしました。
このコラムを書くのに、 辞書も文献もいっさい使っていません。 直接、 会う。 それだけで書く。 が、 一年前にわたしが自分で決めた課題でした。
 
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)12月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   写真(上) 地図の上には観客全員の居住地点に画びょうが打たれている。
   写真(下) 暗転すると星空が。
   
   1年間の連載もこれで最後になりました。
   月刊「ACT」編集部のみなさんに感謝します。


   

アート・アトランダム⑪                       秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
11 /24 2010
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税務署さんに見せたくない美術はあるかな?
──わたしんちの場合
 
                                       秋亜綺羅
 
さて。わたしが死んだとしたら、遺族で奪いあうような美術は、わたしんちにあるのでしょうか。
まず。事務所のドアを開けると、無造作に二枚のパネルが置いてあります。一枚が一三〇㎝×七四㎝くらい…。焼け焦げた新聞紙がバウムクーヘンのように丸められていて、それがたくさん並べて貼られています。そのうえに、たばこの火で焦げたような布きれが覆われています。へんな形で、よくわかりません。これは松尾留美子が置いていったものです。ガラスも何もないので、埃だらけです。訪れる客も「これはだれの作品ですか」とは聞きません。「これはなんですか?」ですね。二〇歳のころ西武新人賞だかをとった作品らしいけれど…。松尾留美子は、仙台駅にある伊達政宗の騎馬像をつくったひとです。
つぎは。墨の前衛美術家・斉藤文春の作品。いく種類かの濃淡の点が無数に置かれています。それだけです。よくわかりません。斉藤文春展のパンフレットの原稿を書いたので、お礼にもらったものです。
で。斎正弘の鉄の作品もあるぞ。宮城県美術館の学芸室に家内と行って「斎さん、結婚のお祝い、なにか頂戴」と。もらってきました。もはや錆びてます。船のようで、動物のようで、ただのカタマリのようで。よくわかりません。斎正弘ですから、一〇〇万円は下らないでしょう。わたしはお金は嫌いです。
あ。もひとつ、思いだしましたよん。ひきだしの中に、漫画家・いがらしみきおの原画が! これはですね、二〇年もまえになるかな。スーパー会話ゲーム「ぼのぼの」のCDの表紙を制作することになって、その時あずかった原画です。知らんぷりして、返さなかったんですね。内緒ですぉ。ふふふ。
それにしても奈良美智なんかより、ずっといいと思いますよね。わたしには奈良美智はマンガにしかみえないし。けっこう挑戦的ですね、秋亜綺羅くん。よくわからないけれど。
 
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)11月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   写真は上から、松尾留美子の作品。
          斉藤文春の作品。
          齋正弘の作品。
          いがらしみきおの作品。
 
   

アート・アトランダム⑩ 原稿用紙に映画は写るか       秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
11 /02 2010
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原稿用紙に映画は写るか
──吉増剛造の詩
 
                          秋亜綺羅
 
先日、ある高校の国語の授業によばれて、「世界で一番の詩人は、二番めの詩人に理解されないでしょう」と生徒たちに話したら、「世界で一番はだれですか?」「吉増剛造だと思うよ、たぶん。わたしには理解できないけど」と答えました。まあ。わたしが二番だよと言いたかったんだけど、ね。
 九月十七日、八戸市美術館の「飢餓の木展」に出かけて来ました。初日だったのかな。
 吉増剛造の新作の映画詩「八戸、蟻塚──章伍さんと」を観たいためでした。
 吉増剛造の「飢餓」をテーマにしたこの作品は映画というより、詩! でありました。詩はことばを道具にするアートだけれど、ことばとは「文字」でも、もちろん「活字」であるとも限りません。いま吉増のことばは、音(声も)であり、映像であり、光と闇であり、気配だったりする。そう感じました。
 これを既成の映像論や詩学で語っても、ムダというものです。カメラのフレームどころか、スケールさえ壊してしまっている…。
 ではさて。吉増剛造の「文字」の作品は、どこに行ったのでしょう。それは、美術の領域なのでしょうね。おそらく。(写真下)
 わたしの場合だと、文字(活字)は詩をつくるためのメモだったり、詩が終わったあとの記録だったりするのだけれど。
 吉増のそれは、確かにメモ、台本のようにみえなくはないです、ね。だけど、ちょっと美しすぎるのだ。
 子どもの頃、最先端の技術である集積回路を見て感動したような、そんな想い。
 また、七〇年半ばに出版された吉岡実の詩集「サフラン摘み」。漢字と仮名のバランス。行の長さのセンス。計算したわけじゃないだろうけれど…。開けた瞬間、詩は行きつくと美術になるんだ。と、そんな想い。
 吉増の手書きの原稿を眺めていると、世界で一番、詩に飢餓しているのが吉増剛造。ということが視えてくるようです。
 
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)10月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   写真は上から、集積回路の一種。
          吉岡実詩集「サフラン摘み」から。
          吉増剛造の肉筆の詩篇。
 
 
     

アート・アトランダム⑨ リセットボタンをはずしちゃえ    ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
10 /01 2010
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リセットボタンをはずしちゃえ
──小鹿夏個展を訪ねて
 
                          秋亜綺羅
 
 新鋭のイラストレーターで、童話作家の小鹿夏の個展を見てきました。小鹿とはミクシィでの出会いで、お互い「寺山修司が好き」という名の関係です。わたしより、ちょっと若い。三十五年ほど。
 小鹿夏はみなとみらい、神楽坂で個展を開いており、今度が三回目。八月三~八日、場所は東京渋谷・ギャラリー・ル・デコでした。タイトルは「イモリのしっぽ第三章─青い足跡、紅い華」。
「イモリのしっぽ」は小鹿が手掛けている、大長編のおとなの童話の題名でもあります。
 美術の個展というと、壁に額縁が整然と並んでいるのを想像してしまうけれど、新しい世代のそれは、どうも違うようです。会場のディスプレーや物の配置、時間の経過までもが、作品であるかのようです。
 絵画やイラストといっしょに、壁には小鹿作のアニメが流され、六九狂ヴィヴィアンの音楽と歌が激しく流れつづけています。
 わたしが訪ねた金曜の夜は、特別企画。小鹿夏の絵本「イモリのしっぽ」から、キャラクターが抜け出してきて、しゃべり出し、歌いました。会場は観客でいっぱい。小鹿の二十四の誕生日でもありました。
 そこが劇場なのか、映画館なのか、遊園地なのか。そんなことは、かまっちゃいられないさ。…アーティストが作品を発表するということの、新しいスタイルのひとつになるのだろう、と感じました。
 小鹿はほかに、街頭でのライブペイントや、パフォーマンスも行っているようです。
 小鹿の世代は、ブログやツイッターをこなし、パソコンを使って映像や音楽を操ります。ゲームなどの遊びは自由に選択でき、出口はどこにでもあります。リセットボタンを押せばいいわけです。
 小鹿夏ら、そんな世代のアーティストは自ら迷路の出口をふさぐことで、自分を表現しようとする。すさまじいものを覚えました。
 
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)9月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい
 
 
   

アート・アトランダム⑧ 壁に残された過去の自分と舞踏する ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
08 /19 2010
 
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壁に残された過去の自分と舞踏する
──丹野久美子と秋亜綺羅のカクテル・ポエム
 
                          秋亜綺羅
 
 〇九年十一月に仙台で公演された、丹野久美子演出の「夢中遊泳」という芝居。公演は一〇時間に及ぶもので、観客の出入り自由という、スケール違いの企画でした。
 その一部分をわたしが任せられていて、カクテル・ポエムと称し、秋亜綺羅が自作詩の朗読をしました。伊藤文恵と斎木良太という、仙台が誇るふたりの俳優が、わたしの詩を感じて演じる(踊る)というものでした。もちろん台本はいっさいないし、練習はたくさんしたけれど、同じことを繰り返さないための、自己模倣にならないための練習でした。
 さて。六㍍×二㍍のパネルに、ふたりの俳優がストップモーションで張りつくシーンがあります。そこにプロジェクターで詩の映像を当てます。朗読は続いています。
 そのパネルには夜光(蓄光)塗料が塗られていました。夜光塗料の効果は「光る」ことだとふつう思うわけですが、ここではふたりの「影」をつくり出すことになります。
 やがて完全暗転になり、壁に残された過去の影と、現在進行形の影がすこしずつ離れていきます。
 そのとき、さっきのわたしの朗読を録音していた二台のテープレコーダを、同時に再生します。二台のレコーダの音(声)は、時間とともにすこしずつずれていきます。
 音も、影もずれていくなか、ことばから意味が聞きとりにくくなっていきます。
 観客が意味を聞くことをあきらめたときに、ことばが壊れ、そこに「詩」が現れるかもしれない、という実験でした。
 それと、二台のテープレコーダの声がずれていくのは、「機械ですら同じものを聞いてはいない。それがひとならば…。一〇〇人の観客は一〇〇の詩をつくることになるだろう」という、メッセージでもありました。
 わたしがいうカクテル・ポエムとは、美(アート)と詩(ポエジー)をシェイクするところから始まります。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)8月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
    

アート・アトランダム⑦ アングラ演劇は美術の領域を進行中 ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
08 /01 2010
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アングラ演劇は美術の領域を進行中
──豊島重之とモレキュラーシアター
 
                          秋亜綺羅
 
  アングラといったら、寺山修司やら唐十郎の名が出てきて、懐かしい文化ですねとか、いい時代でしたね。とか、言われてしまっているようです。
 アングラ(地下)というのは懐かしいものなんかじゃなくて、いまはまだ誰にも理解されず、新しすぎて「地上」では認められないもの。であるはずです。
 先日、東京の早稲田で公演した、豊島重之のモレキュラーシアターを観てきましたが、アングラは確実に生きていました。
 懐かしさばかりを売っている、アングラ劇もどきが多いなか、いまを生きるアングラは、美術の領域に行こうとしている。…モレキュラーを観て、そう思っちゃいました。
 四月二十四・二十五日。「バレエ・ビオメハニカ」は早稲田大学文学部の構内、気になるほど天井が高い、演劇映像実習室で演じられました。五〇人ほどで満員で、三回ほど追加公演があったようです。
 プロジェクター用の一枚のスクリーンが、いわばステージです。その前で舞踏する俳優。それに二台のプロジェクターで光と影を当てる俳優。メイエルホリドの「最後の演説」と、ジュネの「シャティーラの四時間」を朗読しつづける俳優。
 プロジェクターを持つのもスタッフではなく、俳優です。舞踏も、光も、声も…。ぜんぶを俳優たちが、一枚のスクリーンと、天井の高い空間に、美術を演出していきます。
 前半が「死体直前」、後半が「死体直後」ということでシーケンスされました。
 ふたりの俳優が二台のプロジェクターを操ることで、光と闇、肉体とその影の呼吸、ズレとブレを生みます。そのうえに肉声の緊張が、もうひとつの震撼みたいなものを覆いかぶせていきます。
 モレキュラーをアングラというのは失礼なのかもしれません。国内外の美術館などに招待され、公演をつづけています。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)7月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
      写真は上から、「死体直前」を演じる、大久保一恵。
          「死体直後」を演じる、四戸由香。
          ふたりのプロジェクショナーは、秋山容子と高沢利栄。
          虐殺された妻、ジナイーダ・ライフを演じる、田島千征。
 
 
写真=ⒸICANOF。
 
 
   

アート・アトランダム⑥ 前衛も現代もいらない ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
06 /22 2010
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前衛も現代もいらない
──石川舜の美術
 
                         秋亜綺羅
 
 石川舜は若いころのわたしにとって、いちばん前衛で、実験的な現代美術家でした。
 カンバスを実際に切り裂いたあとに縫いもどすとか。逆に、まるでカンバスを切ったように描く(写真1)とか…。絵の具が半分はみ出したチューブが、そのまま貼られている絵も見たことがあります。細い線で描かれる鉛筆画は圧巻だし…。白いカンバスに白い絵の具、黒いカンバスに黒い絵の具なんて、あたりまえ。
 先日この取材で石川舜と会ったとき、「実家が写真屋だったので、写真に写らないように絵を描いたんですよ」と。たぶん、すこし冗談でしょう。
 石川舜は、他人に見せるための絵を描かない。美の行為は、だれかを幸福にするための、サービスの道具ではありえないからです。
 もちろん日常生活というものは、ひとに喜んでもらうことで自分もうれしい。そしてそれがお金になり、生活が成り立つ。みんながお互いにそうしているわけですけれど。…
 だけど、アーティストの仕事はそうじゃない。自分が、さっきまでと違う自分をつくる。そのために今あるものを壊し、さっきまでの自分と闘う。そのすさまじさに、他人が感動することがある、というだけのことです。
 ちょっとおおげさだよ、と石川舜がいいそうだけど、だけれど。石川舜はじゅうぶん、すさまじい。
 九〇年代から石川舜の作品が変化します。
二三〇×七三〇の大作になります。「再現」という作品。宮城県美術館の地下の収蔵室で、わたしは見せてもらいました。(写真3)
「これは、寝て見た夢の写実ですか?」
「いや、地をまさぐるモグラの皮膚感覚みたいなものを、想像した世界だよ」と石川舜。
 かなりあっさり、端的に答えてくれました。いまも未完の大作を抱えているようです。(写真4)
「現代とか、前衛とか、実験とかそういう衣服を脱いだほうが、自由だったかな」
 わたしもそう考えていたところでした。

 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)6月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
      写真1を拡大して見てみてください。キャンバスを切り裂いて縫い合わせたよ
   うにしか見えませんよね。
   写真3と4は、普通の画廊には入らないほどの、とても巨大な作品です。

 
 

アート・アト・ランダム⑤ 場所が美術を質問する ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
05 /26 2010
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場所が美術を質問する
──佐藤才子の「美術計画」
 
                           秋亜綺羅
 
 むかしになるけれど、わたしはある美術館から詩の朗読を頼まれ、断ったことがありました。「落書きもできないような美術館には、興味ありません」というのが理由でした。
 昨年旅行に行ったとき、「美術作品の上に落書きすると犯罪になります。落書きは壁にしてください」と書いてある、地方の古びた美術館がありました。「しゃれてますね」とわたしが館の学芸員にいうと、「あれは落書きです」。確かに、しゃれている。
 さて佐藤才子は、「美術計画」という名の美術展? を何度も主宰しています。毎回二十人ほどの現代美術家が参加しています。
 企画のまえの、佐藤の最初の美術行為が、場所を決めることだといえそうです。もちろんそれは、落書きもできないような美術館なんかじゃない!
 佐藤にとって町は、とっくに「美術」なのでしょう。町という名の美術と、自分たちの美術が、おたがいに絵の具になったり、まじり合える場所! 佐藤才子に選ばれた場所こが、「美術計画」の会場となるわけです。
 それは古い蔵だったり、使われていない倉庫だったり、廃墟だったり、廃船の捨て場だったり。
 最新の「美術計画」は、桂島という、松島の島のひとつ。廃校になった小学校でした。
 校庭も校舎も、窓から見える水平線も、みんな「美術計画」の会場です。
 わたしは、塩釜港から船で三〇分。一〇分ほど小道を登ってたどり着きました。
 校庭の奥に置かれた一艘の小舟。が佐藤才子の作品でした。草を踏みながら、ほかのひとの作品を壊しゃしないか。…近づきます。
 この舟は何百年もまえからここにあったんじゃないだろうか…。ふと見ると舟の底には、体長五〇センチほどの白骨化した魚が…。
 この魚と舟は、わたしと同じように、この小道を登ってきたのだろうか。水平線が、骨になった魚とわたしを、見ているのでした。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)5月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   

アート・アトランダム④ 死刑囚が見てしまった国家  ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
05 /09 2010
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死刑囚が見てしまった国家
──劇団オクトパス「絞首台の上の馬鹿」
 
                         秋亜綺羅
 
 
 これは演劇評というわけじゃないし、舞台美術の話ってわけでもない。一枚の絵の話。
 劇団オクトパス「絞首台の上の馬鹿」は〇九年一二月、暗くて寒い真冬に、倉庫を改造した会場で公演されました。観客には小さな毛布と、使い捨てカイロが渡されています。会場全体が刑場のような雰囲気で、それはそれは、寒いのでありました。
 で、死刑執行されたはずの死刑囚が生きていた…。石川裕人・作の演劇は、そこから始まっていきます。
 死ななかった死刑囚に、ふたたび刑を執行すべきかどうか。その死刑囚のいる刑場のなかで、刑務所長と、刑務官と、医務官、牧師、検事のあいだで激しく論争されます。
「国家があなたを殺すのは、善悪を超えたところにあります」という検事に、死刑囚は言います。
「検事さん、国家ってなんですか。ぼくは国家が見えない。まったく闇のなかだ。見えないものに殺される。いちばん馬鹿のやられそうなことじゃないか。馬鹿のままで死になさい、ということだったんだ」。
 検事「わかりました。死刑執行を中止します。ここから出なさい」。
 意外な展開にみんなが驚くなか、死刑囚は外に出ようとするのだけれど…。出口のまえまで来て、立ち止まってしまうのでした。
「そう、あなたは出ていけない。あなたはいま、見えざるものがはっきり見えたんですね?」と検事。
「これが国家か、これが僕を殺す国家か」。
「そうです国家です」。
「…検事さん、僕を死刑執行してください」。
 死刑囚のまえに広がっていた風景とは…。
 寒さに身を小さくしながらも、一時間半も凝視し、立ち会っていた観客たちであった。
「そうです国家です」。
 観客席という名のカンバスに、観客という名の絵の具で、「国家」という名の一枚の絵画を、石川裕人は描いていたのでした。
 真冬の会場にはエアコンがついていたけれど、確かにあれは冷房だった。
 俳優たちがはけたステージで、検事は観客席にむかって言います。
「本日の死刑執行を終わります。みなさん、ご苦労様でした」。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)4月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   (いちばん下の写真は、ステージから見た、開場まえの観客席
 
 
 
 
 
   
 

アート・アトランダム③ いけばなって、現代アートだよね  ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
04 /03 2010
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いけばなって、現代アートだよね
──高橋昭子のパフォーマンス
 
                            秋亜綺羅 
 
 
 いけばなの「いけ」は、いけにえのいけだろうか…。
 詩論とか芸術論とかに飢えていた若かったころ、いけばなこそが、いちばんの前衛アートになるかもしれないな、とわたしは感じていました。
 絵や音楽とちがって、いけばなは生きた道具(花)を使うからです。美術がドローイングや、インスタレーションなど、偶然性に出口を見いだそうとしていた時代…。「生」はとっくに、偶然のかたまりなわけです。
 ずいぶん昔になるけれど、わたしのイベント企画で、仙台在住のいけばな作家・高橋昭子に「いけばなパフォーマンス」なるものをお願いしたことがありました。
 あるデパートのスタジオで、教室程度の広さでした。そこに高橋が持ち込んだのは、なんと数十体のマネキン人形の群れ。枯れ葉、古着、綿、ビニールシートなどでマネキンたちを「着飾り」ます。高橋にかかるとしょせん無表情なマネキンが、息をしはじめる。
 どこがいけばななのだろうと思いました、はじめは。そのとき、「自然をすこしだけ切りとって生かす」という高橋のことばを思い出しました。あ、いけばな作家は「モノ」をも生かしてしまう力を持っている。いけばなの「いけ」は…、という最初の問いに答えをもらったような感動があったものです。
 そのマネキンたちのなかを観客たちは歩きます。さまざまな花を手に持って。好きなところに花を置きます。生かされたマネキンと、生きている観客と、命を半分切り取られた花たちと…。
 先日ほんとに久しぶりに、高橋昭子がわたしの事務所を訪れてくれました。すすきを一本、ガラスの瓶に活けてくれました。
 いま、何千本ものすすきを使って個展を企てているそうです。わたしがこのコラムをやっているうちに、ぜひ実況したいものです。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)3月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   (写真は2001年、高橋昭子の作品。中本誠司美術館)
   マネキンのイベントの写真がどうしても見つかりませんでした。
 
 
 
 
 

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅