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いがらしみきおの 「人は死ぬのを知りながら」

詩ってなんだろう
12 /17 2011
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 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 「季刊ココア共和国」 vol.8 に掲載された、いがらしみきおの 「人は死ぬのを知りながら」 が、ツイッターなどで話題になっているようです。
 
 上の写真がその、ラストシーンです。 いちばんいいとこ、勝手にブログに載せちゃって、いがらしさん、怒るだろうなぁ。 まぁ、わたしのブログなんて1日200人と読者はいませんから、影響はないでしょう。 へい。
 
 今回は全部で8ページだけの実験版でした。 いがらしみきおに言わせれば、ダイジェスト版、短縮版ということです。
 完成すればおそらく、32ページだてくらいになるだろうと思っています。 いま以上の、巨大なスケールの展開が期待できます。
 
 ネット販売、電子出版。 英語版、仏語版なども考えています。 問題は、死ぬほど忙しい、いがらしみきおが、いつ描いてくれるか。 です。 死ぬのを知りながら、死ぬまえになんとかお願いしたいものです。 ははは。
 
 ダイジェスト版である今回の 「人は死ぬのを知りながら」 は、文字だけ並べてみれば、詩人や、哲学者にとってみれば、それほどびっくりするものでもないでしょう。
 
 
 
  「人は死ぬのを知りながら」           いがらしみきお
 
 
  人は自分が死ぬのを知っています
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  毎日ごはんを食べます
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  誰かに会います
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  なにかになります
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  笑っています
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  黙っています
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  かすかになにかを待っています
 
  人は自分が死ぬのを知りながら
  なぜ死ぬのかは知りません
 
 
 
 実際、いい詩なのだけれど、こうやって書き出してしまっては、いがらしみきおのせっかくの意図は壊れてしまうのでしょう、ね。
 
 ただ、漫画人にしてみると、すごい作品みたいです。
 この8ページのために、いがらしみきおは1週間ほどかけて描いています。
 
 たとえば、うえに載せた最終ページ。
 人は、いません。
 まえの7ページには必ず人が登場していたのに。…
 
 道には、足跡らしきものが遠くから続いて来ていますが、
 途中までです。
 近くになると、足跡ではなく、木の葉らしきものになっています。
 水たまりが4つあります。
 水たまりには青空と、白い雲が映っています。
 
 道の横を流れる川には、木々の影まで水面に揺れています。
 この1枚の絵のなかでは、舗装されていない泥道だけが、
 人工のものです。
 人工といっても、川の側にそって歩いた、たくさんの人々の足によって
 つくられた道なのでしょう。
 
 遠くの山々も、空も、川も、土手も、
 人がつくれるものではありません。
 
 だけど、人がつくった道が中央にいちばん
 大きく描かれています。
 
 なぜか、なつかしい。
 なぜか、ここで自分は死ぬんだな。
 という気にさせられます。 わたしは。
 
 というようなことを、読者がそれぞれ
 考えていけばいいのだと思います。
 
 漫画というのはふつう、絵を眺めながら、ふきだしなどの文字を読んで、ストーリーをつくっていくものですが、これは、逆の読み方が必要です。
 文字を眺めて、絵を読んでいく…。
 絵を読むことで、ことばの奥まで入っていってしまう…。
 
 1枚の絵に、なん時間でも考えさせられる。
 その、キー  (鍵) となっているのが、文字。
 というわけです。
 
 表現にとって、あたらしい分野をつくることになりかねない、記念すべき作品だと、わたしは思います。 コンサートといえばクラシック音楽しかなかった時代に、世界で初めてのジャズが、演奏されたときのように。
 
 
 
 
 
 
 
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演劇的じゃなく。 音楽的じゃなく。

詩ってなんだろう
10 /19 2011
2011年10月19日(水)
 
 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 
 10月8日(土)に青森市で、日本現代詩人会と青森県詩人連盟が主催する、「現代詩ゼミナール”東日本” in 青森」 が開かれました。
 東京と東北6県の詩人たちが集まり、シンポジウムや自作詩の朗読などが行われました。
 
 わたしも呼ばれていて、大好きな伊藤文恵の舞踏といっしょに、詩を叫んで来ました。 伊藤文恵は仙台の新鋭の舞踏家で、1時間踊れば1時間だけ歳をとって見せることができる、身体表現の詩人、天才の舞踏家です。 わたしより、30歳ばかり若い。
 
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                       写真=宮内文子
                       VTR=伊達泳時 
 
 
 
 
 
 
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 わたしの今回の詩は、マイクロフォンも、音楽も、音響も使わずにやること。 演劇的な面白さも、音楽的な面白さも排除する。 ステージのうえでふたりは目を合わせることはない。 という点を確認しあっていました。
 
 マイクロフォンを捨てたのは、機械を通して声は、音に変化してしまうからです。 伊藤もわたしにとっても、音を使わないというのは、とてもつらいことです。 ふたりともずっと、音楽をメトロノームにしてきたからです。
 
 観客にはとても退屈だったろうけれど、ふたりにはとても恐怖でした。 わたしも伊藤も裸足でした。 この会場内で裸足なのはふたりだけ…。 怖いので、ステージの床をとおして、手(足?)をつないで、演じていたというわけです。
 
 ふたりが目を合わせない、という約束は、ふたりはおたがいも、観客すらも見えていない。 という設定で、詩を読んでいるからです。
 
 たがいの身体の気配と、ことばという名の観念だけを頼りに、ふたりはステージに立っています。
 
 音を使わないことで、観客たちの呼吸を感じることができました。
 実は、そこに今回のステージでの朗読の目的があったのです。
 ひとの呼吸をメトロノームにすること。 
 
 まあ。 たぶん、うまくいったとは思えませんけれど…。
 
 わたしはこれまで、詩の朗読をするとき、
 「ひとりの少女が交通事故に遭って、倒れたまま自分の血で 『おかあさん』 と、アスファルトのうえに書いたとする。 その5文字のことば以上の衝撃がないものは詩じゃない」
 などと、ちょっと偉そうに話してきました。
 
 だけど、3月の震災後の被災地の風景には、「おかあさん」 という5文字が、いたるところ、どちらを見回しても、現実として存在したのでした。 現実の 「おかあさん」 は強烈でした。
 もうわたしは二度となにも書けないんじゃないか。 と思ったりしました。
 
 だけど何か月か過ぎて、わたしもここで、がれきのひとつになって、「おかあさん」 と叫んでみよう。 と考えるようになりました。 この場所と時間から、詩でないものを引き算していってみよう。 そこにもし、いとおしさと切なさが、ちょっとでも残っているようだったなら、わたしの詩は、ぜんぶが津波に流されたわけじゃない。
 
 今回のわたしの詩 「津波」 は、海岸で水平線に向かって叫ぶために、書かれたはずのものでした。
 実際、イベントの翌日、青森の海に行ってみたのですが、津波のイメージとは程遠く、暖かく、穏やかで…、帰って来ちゃいました。
 ビデオの伊達泳時などは、海の中から伊藤文恵とわたしを撮ろうと、海水パンツまで持って来ていたんですけれど、ね。
  
 仙台に戻って、仙台の海や、閖上などにも行こうとしたのですが、通行止めばかりで辿り着けませんでした。
 わたしの宿題はまだ終わっていない、というわけです。
 
 ところで、今回の青森で、うれしいことがひとつだけありました。
 その日すべてのイベントが終わって、トイレに入って小便をしていると、となりで同じく小便をしていた若い男性2人が顔を見合せながら話しているのです。
 「あの、金魚の踊りの、伊藤文恵って、よかったよ、ね」 と。
 となりで秋亜綺羅が聞いているのに気づかずに…。
 
 ふたりの男が小便を垂らしながら、「伊藤文恵はいい」 と言ったのです。
 どんなマスコミに取り上げられるよりも、どんな評論家に褒められるよりも、おチンチン片手の2人の男に認められちゃった。
 仙台の伊藤文恵が、世界の伊藤文恵になった瞬間でした。
 
 
 
 

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詩誌 「詩想」 佐藤幸雄追悼特集号が出ました。

詩ってなんだろう
09 /07 2011
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 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 宮城県詩人会主催の第1回YS賞は、「季刊ココア共和国」 の常連、19歳の藤川みちるでした。
 その、「YS」 というのは、詩人・佐藤幸雄のイニシャルです。
 佐藤は、2008年に60歳で亡くなっています。
 わたしといっしょに、高校生などハイティーン詩人たちをいつも見つめてきました。
 
 きょう、佐藤幸雄が主宰していた  「詩想」 23号がしばらくぶりに出ました。
 佐藤幸雄追悼特集号です。
 佐藤が亡くなって2年半以上も過ぎてしまいました。
 わたしは 「詩想」 の同人じゃないのだけど、文章を書いています。
 
 2年近くまえに書いたものなので、どうかな。 と思いましたが、
 「詩ってなんだろう」 とふと考えることがあったときなど、
 ちょっと読んでみてもらえたら、うれしいです。
 
 現在の 「詩想」 を主宰する詩人・伊深久男の許可をもらったので、
 全文、掲載します。
 
 
 
 
 
 
佐藤幸雄論まで時速4キロ
                                         秋亜綺羅
 
 
 
  幽霊というのはほんとうは夜、眠っているものなのだ。
  幽霊に会ったなどというのは、夜眠られないひとたちの、嘘に決まっている。
  ぐっすり眠っている幽霊を見た、というならばともかく
 
 
 と書いたわたしの詩を見て、佐藤幸雄は 「眠れない」 じゃないのかな。 と切り出した。 「いや、眠れないは典型的なラヌキことばでしょう」 とわたし。 それから長時間の詩論の応酬が始まる…。 佐藤はすでに、進行がんと闘っていた。
 佐藤幸雄はおおぜいのまえでは、とても愉快なダジャレおじさんだった。 とくに高村創とのおやじギャグの決闘は、つぎに飛びだすワザがわかりきったプロレスのように、感動した!
 だが、ふたりきりになると、佐藤幸雄とわたしは詩のことばかり話した。 時間がないような気ばかりしていた。
 数日後、「詩集のタイトルを決めましたよ」 と佐藤。 「眠られない人々のために」 だそうだ。 わたしはわざと、声を出して笑った。 ラヌキことばの件もあったけれど、死を宣告されたひとが、眠られないひとのために詩を書く、という逆説に、わたしは声を出して笑う必要性を感じた。
 

  眠られない人々のために      佐藤幸雄
 
  まず
  よこになり
  目を閉じてください
  すると くらくなりますね それでも
  まぶたをとじた まなうらに
  あかるいところ
  くらいところが
  あるでしょう その中の
  もっとも黒く くらいところを見詰めてください
  そのなかに全身を埋めていきましょう
  すると
  さらにくらくなりますね
  さらに
  くらいなかの
  もっと
  くらいところを
  見詰
  て
  くだ
  さい
 

 ここまで読ませてもらって、「幸雄さん、待ってください」 とわたし。
 「わたしがいま書いてる詩です」 といって、書きかけの原稿を佐藤に見てもらった。
 

  九十九行の嘘と一行の真実      秋亜綺羅
  
  目を閉じると暗闇が出来るでしょ
  その暗闇のなかで
  目のなかの目を閉じるんです
  
  ほら
  暗闇のなかに
  暗闇が見えるでしょ
  暗闇って
  かたちがあって
  わりと明るい場所だよね
 

 「盗作したわけじゃないですよ」 とふたり。 ほとんど同時に声を出したのだった。
 いま、佐藤幸雄の詩集を読み返してみると、ほかの詩の多くにも、ふたりの共通と思われるテーマや手法を読むことができるのである。
 わたしはいつのまにか、詩を一行書くたびに、幸雄さんならどう書くだろう、と思うようになった。
 だからいま、わたしの詩の一行一行は、佐藤幸雄論への一歩一歩だといえそうである。
 佐藤は、「眠られない人々のために」 のあとがきで、重要な詩論を展開している。
 

   第一詩集を出しての半年後、私は手術台に乗せられていたのです。 大腸癌との診断を受けてのこ
  とだったのですが手術を担当した医師からは、「相当の覚悟」を言い渡されました。 事態は医師の告
  げた通りに進展し、今、複数の転移にみまわれています。 否が応でも死というものを意識せざるを得
  ない立場に追い込まれた事になりますが、観念としての死ではなく、具体としての死を思いやると
  き、生というものが色めき立って私を覆い尽くすことにことになったのです。 ここに収められた詩はそ
  うした状況の中で生まれたものであることを告げなければなりません。 結果として、そうした状況下
  での機会詩ということになってしまっています。 それは私にとって、最も避けなければならない前提
  なのでした。
 

 この 「機会詩」 否定論には、わたしも全面的に同意である。
 最近は、老いも若きも、ことばで日常の出来事や心象をスケッチするだけで 「詩」 と称しているひとが多いわけだけれど、佐藤幸雄はそれを完ぺきに切り捨てているのである。 カンバスのうえのスケッチがどんなに上手になったからといって、画家にはなれないのだから。
 佐藤は詩人としての自覚を捨てることを嫌った。 七〇年安保の時代に詩を書き始めたからというわけでもないが、佐藤もわたしも、メタ詩。 詩は詩のために書く、のである。
 ある日、若い詩人たちとの議論で 「詩はなぜ書くんですか」 という話になったとき、わたしは、
 「不良少年はナイフをいつもポケットに隠していないと安心できない。 わたしは世界でいちばん切れ味の鋭い、さっきまで自分で磨いていた詩を、ポケットに持って歩きたいんだよ、ね」。
 すかさず佐藤幸雄。
 「だけどしばらくすると、自分のなかで、そのナイフは錆びてくる。 新しい詩をまた書かなければ、不良をやってる自信がなくなっちまう」。
 で、話を戻して。 佐藤幸雄はあとがきで 「そうした状況下での機会詩ということになってしまっています」 と自分の詩のことを書いたけれど、そんなことはまるでない。「生というものが色めき立って私を覆い尽くす」 と自ら書くように、「死」 が 「生」 を立ち上げていくという佐藤幸雄のロジックは、新しい世代に読み継がれるのにふさわしいと思う。 寺山修司も語ったように 「死」 は 「生」 のなかにしか存在しないのだから。
 佐藤の詩は、わたしの詩もそうだけれど、比喩を嫌う。 直喩はもちろん、暗喩も、である。 反語や二律背反、逆説から出発して、いままで行きつけなかった場所へ行こうと試みるのである。 逆説を超える手法を捜すのだ。
 佐藤幸雄の詩がわたしより優れているのは、わたしの場合、方向を変えずに目的地に突っ込むわけだけれど、佐藤の詩は、ユーモアをおみやげにして、元の位置に戻ってくるのである。
 最初に引用した 「眠られない人々のために」 の後半は以下のように続くのだった。
 

  それをくりかえすと
  いつのまにか眠れます
  ただし
  それと反対の
  過程を経て
  めざめる
  わけでは
  あり
  ません
  めざめない
  ことが
  ある
  こと
  も
  知っていてくださいね
 

 さて。 わたしだって幸雄さんと詩論ばかりやってたわけじゃないぞ。 ふたりの会話で覚えているおやじギャグをいくつか…。
 
 幸雄さんの症状が末期だ、と聞いたとき。
 わたし 「幽霊は自分が死んでいることを知らないとします。 あなたが幽霊でないことを証明しなさい」
 幸雄 「いや、いま幽霊かもしれない。 幽霊だってことを、どうすれば信用してもらえるんだ」
 
 詩集刊行の打合せが、午前にあった。
 幸雄 「おはようございます。 秋さんは意味のないあいさつは嫌いでしょうけど…」
 わたし 「おはようございます。 死ぬのはちょっと早すぎますよ、というくらいの意味です」
 
 幸雄さんから快気祝いに 「お花の商品券」 をもらった。
 わたし 「ほんものの花は、にせものの造花だ」
 幸雄 「ほんものの造花は、にせものの花だし」
 
 佐藤幸雄は1948年、仙台に生まれている。 わたしの3年先輩である。 70年安保の時代に仙台で詩を書きはじめたふたりは、こんなに詩論も近いというのに、なぜ出会わなかったのだろう。
 出会いは、それから35年後の2005年になるのである。 それまでわたしは佐藤幸雄を知らなかったし、佐藤もわたしを知らなかったと思う。
 だけどそして、これからはずっといっしょに、詩をやれたはずだったのに。
                                               (2009・11・02脱稿)

 
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詩人の瀬崎祐がわたしの詩 「津波」 を評してくれました。

詩ってなんだろう
08 /20 2011
 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 詩人の瀬崎祐が、自身のブログ 「風都市」 で、季刊ココア共和国第7号の、わたしの詩 「津波」 を批評してくれています。 ので、勝手に転載しちゃいました。
 
 
 
 
 (以下転載)
 
ココア共和国 7号 (2011) 宮城  「津波」  秋亜綺羅

 この作品はタイトルで容易に判るように今回の東日本大震災をモチーフにして書かれている。 秋は自身のブログ 「ココア共和国」 で自らの被災状況をリアルタイムで発信してもいる。 それは記録である。 この 「津波」 は詩作品である。
 130行あまりの長い作品。 「昨年の夏祭りで/恋人といっしょに買った/一匹の赤い金魚」 を入れていた金魚鉢に海が近づいてきて、水平線が飛び込んできたのである。
 秋が実際に恋人といっしょに金魚を買ったのかどうか、死を思わせるような記述がなされている恋人が実際にどうなったのか、いや、実際に ”恋人” が存在しているのかどうか、それはどうでもよいことであるだろう。 これは作品なのだから。

   太陽がいっぱい

   帰りたくないのでハサミで切った世界地図の日付変更線は
   波にさらわれることなどないだろう

   太陽がいっぱい

   瞬きをすれば真似をする恋人の見つめるような瞬きは
   波にさらわれることなどないだろう

   太陽がいっぱい

   沈む一瞬好きなひとを思い浮かべた恋人のくちびるは
   波にさらわれることなどないだろう

 やや感傷的とも取れる詩行も混じってくるのだが、作品は作者を越えてうねりはじめている。それでいて、たしかに秋の詩作品になっている。
 こんなことを書くのは、当事者の方々には心ないことであるのかもしれないのだが、作品であるからには、こうして ”現実ではない時点” で詩を書いて欲しいと思う。詩は ”日記”ではないし、 ”忘備録” でもない。 それは現実に凭りかからない地点で、それ自身で立ち上がっているものべきであると思うから。 それでこそ、風化されない作品になると思うから。
 
 (以上転載終わり)
 
 
 わたしの詩の良し悪しは別として、瀬崎の詩に対する考え方は、100%そのとおりだと思います。
 
 全国の詩誌や新聞やTVなどで、震災に関する詩人の作品が多く取り上げられるけれど、被害がどうだとか、何100人死んだとか、とにかくがんばろうとか…。 戦時中の詩もこうだったんだろうな。 と考えてしまいます。 夕焼けがきれいだからといって、「真っ赤な夕焼け」 と書いても詩じゃないことくらい、小学生だって知っていますよね。
 
 詩人たち本人は本気で書いているわけだから、いいとして…。 マスコミのひとたちはどうして簡単に、詩として取りあげちゃうのだろう? 自分たちが被災地に対峙して書いた取材メモ以下のことばたちを、ほんとにこれでいいの? と疑わないで詩として掲載しちゃうことも、まるで戦時のようですね。 これだったら、新聞記事たちのほうが、ずっと詩ですよ。 それを朗読する女優だって、ほんとにこれ、読むわけ? と疑っていたんじゃないかな? 新聞記事を読みつづけたほうがずっと、感動的ですから、ね。
 
 ただ、だけど。 わたしの 「津波」 というような詩にも、危険があります。
 「ものと生命」、「ことと死」 をとりあげたいために、デフォルメしています。
 地震も、放射能もあえて書いていません。 今回、ひとの命を奪った 「津波」 だけを書いています。 実際なら金魚鉢は、地震で落ちるか、すくなくとも水のほとんどがなくなっているはずです。 それにもふれず、平穏な金魚鉢に海が近づいてくる。…というところから、詩ははじまります。
 
 金魚と恋人は、津波で死に、「わたし」 だけが生き残ります。 その三者の物語です。 田んぼまで流れてきた船や、自動車や、家や、倒木のことなどは、わたしの貧困な想像力でぜんぶ引き算して、そこに浮かんできた物語です。 「命」 だけを扱いたかったのです。 がれきにも 「命」 を与えてしゃべらせています。
 
 この手の詩は、ほんとうの被害者には腹が立つものです。
 
 いままでだれにも話していないことですが、わたしが学生のころ、詩を書く女の子と同棲していて、アパートの屋上から飛び降り自殺されたことがあります。 運よく未遂でした。 毎日病院に看護に行くわたしを、友人が慰めようと、当時流行っていた中島みゆきの 「時代」 という歌をなんども聞かせようとするのでした。
 
  まわるまわるよ 時代はまわる
  別れと出会いをくり返し  
  今日は倒れた旅人たちも
  生まれ変わって歩きだすよ
 
 この歌って、ほんとの悲しみを経験したことがないヤツが書いているよな。 と。…腹が立つばかりでした。
 
 いま、わたしもそう思われるのを覚悟しながら、「津波」 を書きました。
 わたしの身勝手だけれど、これを書かないと、次の詩が書けないと思ったのです。
 
 詩は、朗読してはじめて詩になる、とわたしは思っています。
 10月8日に青森で、伊藤文恵の舞踏といっしょにこの詩を、やらせてもらうことになりました。 近くまた、このブログでご案内しようと思っています。
 
 
 
 
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瀬崎祐による、みゆき 「おじいちゃん」 評

詩ってなんだろう
06 /09 2011
 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 詩人の瀬崎祐が、季刊ココア共和国第6号の、みゆきの詩 「おじいちゃん」 を、自身のブログで批評してくれています。 勝手に転載しちゃいました。 (瀬崎祐 「風都市」)
  みゆきは、このブログで知り合った詩人です。 わたしは Yahoo!ブログで、多くの詩人たちを見ているつもりですが、才能あふれる若い詩人たちに出会うのが楽しみです。
 ブログというのはもともと日記ですから、現代詩のように計算づくめのことばづかいは必要ないかもしれません。 死んでしまったことばたちを、昆虫採集のように並べるのじゃなくて、ことばを生きたまま飛び交わせましょうよ。 生きていることばたちに与える食事は、ひらめきと、ときめき、です。
 
 
 
 (以下転載)
 
ココア共和国6号 (2011/5) 宮城
 
 「おじいちゃん」 みゆき。
1連2行の平易な表現で ”おじいちゃん” の思い出が綴られていく。 そのおじいちゃんは、縁側で足裏のツボを叩いていたり、いっぱい持っている年金で私を大学へ行かせてやるぞと言ってくれる(本当は借金の返済で年金なんて残っていなかったのだが)。

寒い冬の日トイレで脳溢血で倒れて入院したおじいちゃん
お見舞いに行って流動食をスプーンで口に運んであげたら

「どうもありがとうございます」 ってすごく丁寧に言ったおじいちゃん
もう私のこともわからなくなっていた

作品の形を整えていくときに、彫刻のように彫っていく意識の時と、塑像のように部分を付け加えて意識の時がある。 この作品は、おじいちゃんの描写を積み重ねていくのだが、どの部分をどれぐらいの大きさで付け加えていくかを、素直な気持ちで選び取っている。
紅白歌合戦にも登場したフォークソング 「トイレの神さま」 を想起させてしまったりもするのだが、それでもなお、読み手に伝わってくるものがあった (1行書きになってからの最終部分は、さすがに余分だと思えるが)。

それにしても、この個人誌を発行している秋亜綺羅が選んで載せる書き手の作品は、どれも明るく軽快で、少しだけ情緒的である。 徹底的に偏った好みで作られている。 個人誌の意味はこういうところにあるのだろうな。

詩誌の後半には、秋亜綺羅が仙台から発信しているブログの一部が採録されている。 和合亮一のツィッターで発信されたものとは異なった視点からの証言である。
 
                                           瀬崎 祐
 
 (転載終わり)
 
 

 
 というわけです。 季刊ココア共和国は、一家に一冊!必需品のはずですが、まだお持ちでない方のために、特別だよん! みゆき 「おじいちゃん」 をここで紹介しちゃいましょう。 とてもいい詩ですよ。
 
 
 
 
 おじいちゃん
                             みゆき
 
   
 いつもあったかい縁側であぐらをかいては
 足の裏を手でぱーんぱーんと叩いていたおじいちゃん
 
 その動作がとっても不思議だったけど、
 足裏にはツボがある事きっと知ってたんだ
 
 自分の手入れした盆栽を嬉しそうに眺めては
 時折床屋さんのようにちょきちょきと枝を切っていたおじいちゃん
 
 どうしても真似してみたくって私がハサミを持つと
 コラコラと嬉しそうに叱ったおじいちゃん
 
 お母さんが近所の人のお通夜でいなくて、
 お父さんも帰りが遅くて布団の中で一人泣いてたら
 
 そっと布団に入ってきて頭をなでてくれたおじいちゃん
 後でお母さんに怒られてとっても可哀そうだった
 
 初めての修学旅行でおみやげに大きな笠を買って渡したら
 とっても喜んで次の日から縁側でかぶってくれたおじいちゃん
 
 おじいちゃんの坊主頭にはぴったりで
 私が思った通り、笠地蔵より似合ってた
 
 景気が悪くなって家が急に貧乏になって進学で悩んでいた時
 「おじいちゃんは年金いっぱい持ってるから大学行かせてやるぞ」 って言ってくれ
  たおじいちゃん
 
 おじいちゃんの年金なんてとっくに借金の返済に回ってしまったと
 後でお母さんに聞いたけど、おじいちゃんには何も言えなかった
 
 お父さんが亡くなっておじいちゃんと別々に暮らす事になって引っ越しの時
 トラックに荷物を詰め込む私たちを淋しそうに見ていたおじいちゃん
 
 寒い冬の日トイレで脳溢血で倒れて入院したおじいちゃん
 お見舞いに行って流動食をスプーンで口に運んであげたら
 
 「どうもありがとうございます」 ってすごく丁寧に言ったおじいちゃん
 もう私のこともわからなくなってた
 
 危篤の知らせを聞いて病院へ駆けつけたら、
 もう霊安室に移されてたおじいちゃん
 
 はげ頭はピカピカで、笑っているような顔をして
 今にも 「よく来たな」 って起き上がりそうだった……
 
 いつも 「こづかい100円やるぞ」 って言って
 軽いお財布さぐっては見間違えて1円玉くれたおじいちゃん
 
 はぶりのいい頃、お金持ちしか持っていなかった選挙権を持ってて
 マント着て投票に行って皆が振り返ったと自慢してたおじいちゃん
 
 だから国会中継が好きで
 時々居眠りしながらもずっと観ていたおじいちゃん
 
 庭の井戸水で粉のハミガキ使ってたおじいちゃん
  
 優しかったおじいちゃん
 
 もっと一緒に居てあげれば良かったよ
 
 もっとお話しすれば良かったよ
 
 ずっとずっと忘れないよ
  
 大好きだったおじいちゃん……
 
 
                                              ──季刊ココア共和国第6号より
 
 
 
 
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季刊ココア共和国第6号」 のおしらせ 
 
 
 
   
 

谷内修三の現代詩講座がはじまるよん。

詩ってなんだろう
03 /11 2011
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季刊ココア共和国第5号」のおしらせ 
 
  
 
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 こんにちは。秋亜綺羅です。
 日本を代表する詩人のひとり、谷内修三(やち・しゅうそ)が、一般の方に向けて 「現代詩講座」 を開くそうです。
 「詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、誰も知らない 『新しい私』 になって、友達をだましてみよう」 という、谷内なりの一般向けに発した、キャッチ・フレーズが印象的です。
 ブログはもともと 「日記」 なので、ブログの多くの詩人たちは、日常を楽しむために、自分の生活や心情を嘘をつかずに表現するものが詩である、と考えているようです。そういう意味では、詩は嘘つきです。 といった、谷内のことばは衝撃といえるかもしれませんね。
 つまりは、「詩は、日常でも生活でもありません」 と、いえるでしょう。生活でじょうずにことばを使うのは、そろばんや計算機を使いこなすのと同じです。日常の買い物などで、とても役に立ちます。 だけど、そろばん日本一は、数学者というわけではありませんよね。そして、日本一の数学者が、買い物じょうずとは限らないことも想像できます。
 日記を行換えすることで、詩としてブログを楽しんでいるのはとてもいいことだと思います。 でもふと、生活ではなく、ことばでの表現そのものに興味を持ってしまったとき、現代詩に目覚めてしまうのでしょう。 買い物にはさっぱり役立たない、数学に目覚めちゃうわけですね。
 谷内修三の講座は、福岡なのでちょっと、遠いな。
 お近くの方、ぜひ。 おすすめです。
 
 
 
   
 
 

谷内修三による石井萌葉、藤川みつる評

詩ってなんだろう
02 /05 2011
 こんにちは。 秋亜綺羅です。  
 しばらくブログに近寄っておりませんでした。 
 ここ、2週間のあいだに東京へ行って、宮内文子の写真展を観てきたり、仙台へ戻って胡弓という楽器の演奏と詩のコラボをしたり。 小鹿夏と組んで、詩画も2点ほどつくったりしています。 小鹿とはまた、アーティストの六九狂ヴィヴィアンと、アニメ編集者の對馬妙子といっしょに、アニメ作品をつくることになっていて、わたしもそこで詩を担当します。 雑誌などの原稿締切りもたまってきちゃいました。 「季刊ココア共和国」 第6号の編集も始まっています。

 で。 「季刊ココア共和国」 第5号に書いている石井萌葉と、藤川みちるの詩を、詩人の谷内修三が、自身のブログで批評をしてくれています。 日本を代表する詩人のひとりである谷内が、ふたりの作品と本気で向き合ってくれています。
 ふたりに限らず、ブログで詩を楽しんでいるひとはたくさんいます。 ふと 「詩ってなんだろう」 なんて思ってしまったとき、ちょっとヒントになるかもしれません。
 というわけで、谷内修三の批評を(無断で)転載しちゃいました。 



【以下引用】

石井萌葉「返り血アリス」、藤川みちる「this world」
(「ココア共和国」5、2011年01月01日発行)

谷内修三


 石井萌葉「返り血アリス」はことばが軽い。そして速い。もっともその速さは短距離競走のような速さではなく、肉体の中からあふれだしてくる若さによる速さである。歩きはじめると、楽しくて自然に足が速くなる。目的地も、歩く意味もわからない。けれど、自然に動いてしまう。そんな具合に、ことばを書くと、自然にことばが速くなる。


  チェシャ猫まぁなんて貴方は
  救いようの無い馬鹿なの
  何時間、何千年こんな所に
  居座ったってね
  アタシの求める世界には
  絶対にならないわ

  真実を確かめる旅に出るの

  嘘、誘惑。そんな話術は必要ないわ
  毒、罠。そんな小細工はめんどうでしょう


 「チェシャ猫」から「アタシ」への移動がとても速い。猫を放り出して「アタシ」が動きはじめる。「アタシ」は猫じゃない。だから「こんな所」に居座ったりはしない。「旅」に出る。
 でも、どこへ?
 これは野暮な質問である。
 「旅」と決めたら、部屋を一歩出るだけで旅なのだ。それは幼い子供が「家出する」と思って少し遠い公園まで行って、それから帰ってくるのとおなじである。距離も場所も関係ない。「決意」だけが問題である。
「決意」というのは、肉体の奥からあふれてくる自然な感情である。勢いのある感情のことである。
「チェシャ猫まぁなんて貴方は/救いようの無い馬鹿なの」という2行は、猫に対する批判ではなく、「アタシ」は馬鹿にはならないわ、という「決意」、あふれる感情なのである。
 ここにはあふれる感情があるだけで、「意味」もない。
 ──ということを書きはじめると、あ、なんだか、この詩を壊してしまうなあ。余分なことは書くまい。


  血血返り血アリス
  ドレスを染めて何処へ行くの
  血血返り血アリス
  足跡辿って着いてくうさぎ
  血血返り血アリス
  笑顔が可愛い気分屋少女
  血血返り血アリス
  アリスはきっと辿りつく

  回る ラララ 彼女は
  スキップしながら探してる
  回る回る回る
  ホントの自分を探してる

  血血返り血アリス
  垂れ目が可愛い我が儘少女
  血血返り血アリス
  誰よりも幸せの意味を知る
  血血返り血アリス
  探し物が見つからないの
  血血返り血アリス
  アリスはきっと辿り着く


 石井を動かしているのは、あふれてくる感情だけである。 あふれてくることばだけである。あふれてくるから、それを前へ前へと放り投げる。 「血血返り血アリス」ということばを放り投げる。
 「血血返り血アリス」ということばがどんな「意味」をもっているか、石井にはわからない。ただ、そのイメージが見える。 実感できる。 そしてことばになっている。 だから、そのことばにぴったりする次のことばを探している。 きっと、それは「真実」のことばとぶつかったとき、きれいな音を立てて、「これが真実だよ」と教えてくれるはずである。 そういう「音」に出会うまで、石井と「血血返り血アリス」を前へ前へと放り投げて進む。
「旅」とは、ぴったりくることばを探して動くことなのだ。「真実」とはぴったりくることばなのだ。 いまのところ石井には「血血返り血アリス」ということばだけが「真実」なのである。
 だから何度でも、その唯一信じられる「真実」を前の方に放り出して、そのことばについていく。 そうすると、次のことばが「アタシ」の進んだ道のわきから追いかけてくる。そして、その追いかけてくることばのなかにある何かが、また、「血血返り血アリス」ということばを前へ前へと放り投げるときの力になる。


  回る回る ラララ 彼女は
  深い森の中で探してる
  回る回る ラララ 彼女は
  やっと見つけた

  地面に小さな人影
  その首にナイフを突き刺すと
  アリスは驚いた
  何千人何万人もの人を殺めて
  やっと見つけた探し物
  それは

  ──血まみれドレスを着た

  アリス──

  でもいいの。アリスはずっと求めてた。
  本当の姿がどうであっても
  アリスにとっては 最高の終わり方。


 最後の方は、ことばが失速する(「血血返り血アリス」がまるで、父帰り、その父をナイフで刺してみたら、自分自身を刺してしまった、そこには血まみれの自分の「人形」があった──という「オチ」を想像させる)が、「でもいいの。」と石井は書く。確かにどうでもいいのだ。「求めていた」ということだけが、ことばにとって必要なことだからである。

       *

 ことばを前へ放り投げて、それを追いかけて進む──ということばの運動は、藤川みちる「this world」にも共通する。


  生かすも殺すも
  自由自在な神様は
  その時居眠りでも
  してしまったんだろう

  筆先から
  滲んだink が
  紙の上に
  小さな染みを作った

  それはきっと
  accident
  けれどきっと
  destiny 

  ちいさなbug は
  増幅し繁殖しながら
  新しい秩序を
  生み出していく

  僕らのstory 
  可能性はinfinyty
  ならばこの手で
  変えてしまおう

  this world! 


 何度か出てくる英語がとてもおもしろい。
 そこに書かれている英語は、藤川にとっては石井の 「血血返り血アリス」 である。 「知っているけれど知らないことば」である。 「音」があって、それから 「意味」 をこめる。たとえばaccidentに「事故」、destiny に「運命」。「意味」をこめながら、しかし、同時に「意味」を剥奪する。藤川がそれまで知っていた「事故」や「運命」とは違った何かを、その「音」のなかに探す。その「音」が別の「音」とぶつかって、新しい音を引き出し、そこから探している「意味」があらわれるといいのになあ──と、ここにないものを探しながらことばが動く。

 ことばを自分の前に放り投げる。そして、それを追いかける。あとから「意味」が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。「でもいいの。」動いていくことが詩の唯一の目的であり、存在理由なのだから。


【引用終わり】



    

谷内修三による秋亜綺羅評

詩ってなんだろう
05 /05 2010
 
 こんにちは。秋亜綺羅です。
 日本の詩壇の最前線にいる谷内修三がブログに、季刊「ココア共和国」に掲載されている秋亜綺羅の詩を評しています。
 きょうはそれをすこし紹介したいのです。
 というのは、プロの詩人といわれる専門家が、詩と言語にこんなにも激烈に対峙して批評するものなのだ。そして批評とは作者を評価するのが目的じゃない。刃物より鋭いことばで対象を解剖し分析する。それは、自分自身の作品の次の一行のための闘いでもある。ということを感じ取ってほしいな、と思ったのでした。
 
 というのも、ブログで詩を書いているひとはたくさんいます。
 詩、なんて楽しいと思えばそれでいいじゃない。
 詩、なんて行を換えて日記を書けばいいんだよ。
 詩、なんて落書き帳でしょ。
 
 そう。ぜんぶ、そのとおりなんです。
 だけれど、わたしがお邪魔してきたたくさんのブログの詩人のなかには、もっといい詩を書きたい。とか、詩が書けなくて悩んでいる。とか、どうすればプロの詩人になれるだろう。とか、と思いはじめているひとも少なくないようです。
 コーヒーだって、おいしきゃいいんだけれど、ほんとうのコーヒーを知ってしまうと、世界で一番のコーヒーを探してさまようことになる。…というわけでしょうか。
 
 そんな、詩の世界に半分踏み込もうとしている方たちに、ちょっと読んでもらいたいなと思ったのです。
 
 以下は、引用(部分)です。
 
 
 
 
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
 
秋亜綺羅「ドリーム・オン」
 
 「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。
 「シッポがないのでシッポを切る」は、正確()には、あるいは「流通言語」的には、
あなたにはシッポがないので、想像でシッポがあると仮定して、それからその想像のシッポを切る。そうすると、「いま」のあなたそのものになる。
ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
 そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。
 そんなことが、ふと、思い浮かぶ。
 秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。
 
 
 
秋亜綺羅「あやつり人形」
 
完璧な暗闇で目をつむると
水溶性の映画がやってくる
世界でいちばん明るい場所がそこにある
 
 「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
 「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。
 秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。
 
 
 
秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る」
 
 秋亜綺羅のことばは「書きことば」だから、どんどん飛躍する。暴走する。そこには漢字だけではなく、カタカナもまぎれこむ。
 
  ただし、自分の手相を忘れて相手の手相しか視なくなったタロちゃんと
  いう名まえの友だちは、オナニストでしかない。ぼくの初恋のすずめち
  ゃんチロちゃんは舌を切られて死んだ。きみには、自白する自由があ
  る。千口ちゃん。

 ここには何が書かれているか。「意味」は何も書かれていない。ただ、「書きことば」は「文字」をかりながら、「文字」があることによってはじめて可能な運動をすることができるという、その可能性だけが書かれている。
 その可能性を書いているだけなのである。そして、その可能性を明るみに出すことだけが、詩の仕事なのである。
 「意味」なんていらない。ことばは、「意味」を捨てて、動いていける。「意味」という「書物」を捨てて、「意味」という「故郷」をすてて、「意味」と「故郷」が持たなかったものをつかみ取りながら、むさぼり食いながら、ことばの「街」を肉体化する──それが秋亜綺羅が寺山修司から引き継いだものだ。
 
 
 以上、引用終わり。
 
 
    

マミさんへ                             ■ 秋亜綺羅

詩ってなんだろう
07 /19 2009

 こんにちは。亡命中の秋亜綺羅です。
 Yahoo!ブログでの友だちであり、大好きな詩人であるマミさんが「宇宙の旅人」というブログで、「詩」についてつぎのように書いています。
 
 
「詩とは何か」

詩を読者の共感を得られるような段階に進むことが
今後の私の詩に関する課題であると…
それが「普遍性」であると
そういう指摘を受けて…

今のままだと、私の一方的な表現で
読者は、ふっと引いてしまう
そこが、アマチュアとプロの違いなんだと…

私は素直に聞いていたけれど
実は全然納得などしていない

私は読者に媚びる気などないし
「普遍性」などいらない
読者が私の書くものを読んで引くなら引けばいい
共感など必要ないのだ

私は破壊者なのだ
これまでの常識や社会通念や価値感や
そんなもので判断されたくない

詩とは…
私の意見ではあるけど
純粋に個人的なものなのだ
主義主張などない
そんなものは反吐がでる

それは
ただ
新しく
生まれたもの

それだけなのだ


マミ
http://blogs.yahoo.co.jp/hibikimami


というものです。勝手に全文引用させてもらいました。マミさん、ごめんなさい。
 はじめ「コメント」欄に意見を書こうと思ったのだけれど、字数に限度があるみたいなので、わたしのこのブログで書かせてもらいます。



マミさんへ                  秋亜綺羅

 まず、マミさんがすこしばかり「詩」を悩んだ、ということ。悩みなんてまるでないような、軽いリズムで、飛び跳ねるような詩を書いているマミさんが悩んだ! ちょっとかわいい、ね。

 前衛とか、アンダーグラウンドとか語られなくなったいま、わたしよりずっと若いマミさんが、こんな意見にたどり着いたことに感激します。
 わたしが若かった(?)70年ごろ、「1万人のひとに読まれる詩と、たった1人のひとに感動される詩とではどちらを書くべきか」なんて議論がありました。だけどその時、「読者は1人もいりません」というのがわたしの意見でした。
 詩でも小説でも、読者のために書いているわけではありません。演劇だろうと音楽だろうと、観客のためにやっているのではありません。
 自分が、さっきまでと違う自分をつくる。そのために今あるものを壊して、さっきまでの自分と闘う。そのすさまじさに、他人が感動することがある、というだけのことです。

 それと、国語の教育を受けているために勘違いしちゃうのだけれど、「ことば」は伝達の道具ではありません。自分が考えるために「ことば」はある、と思いませんか?
 生まれて気がつくとたった1人で無人島にいたとします。1人ですから伝達する相手はいないけれど、「ことば」を発明していくことになるでしょう。「ことば」がないと自分の考えが整理しにくいからです。
 ところが、考えるための「ことば」が、実は他人への伝達にとても便利だ、と気づくのです。恋人どうしが手を握って見つめあうだけのテレパシーよりも、右だ左だ明日だ昨日だと細かい指示ができる「ことば」のほうが便利だと思い込むのです。そうやって、人類はたくさんの本能や、テレパシーを失くしてしまった、というのがわたしの考えです。
 わたしにとっての詩は、人類から本能やテレパシーを奪った「ことば」を逮捕することです。「詩」とは言葉の寺と書きます。「ことば」を葬る場所を「詩」というのかもしれません。

 「観客からお金をもらうのだから、観客を喜ばせるために演劇をやる」…これって商売の世界ですよ、ね。商売がけっして悪いわけじゃない。私たちがふだん生活でしていることがこれです。≪仕事≫をしてお客さんに喜んでもらう。喜んでもらうとうれしい。しかも喜びの代償としてお金をもらい、生活が成立する。…これがわたしたちの日常です、よね。
 だけれど待って!、と考える。わたしはよりよい日常のために詩を書いたり、演劇をしたりするわけじゃないよ、と。詩を書く時ぐらい、純粋に自分自身のための時間にさせてよ。商売は日常の生活でがんばるからさ、というわけです。

 では、アマチュアとプロの違い、ってなんだろう。と考えます。読者からお金をもらって生活するのがプロでしょうか。それではプロといっても商売の世界です。小説家のなかにも、演劇人のなかにもそういう商売のプロが存在することは認めます。それはそれで、国民へのサービス業をしているわけですから、大事な≪仕事≫だとは思います。

 では、プロってなんだろう。たとえば絵画は絵の具≪で≫絵≪を≫描きます。楽器≪で≫音楽≪を≫演奏します。ことば≪で≫詩≪を≫書きます。だけどプロの詩人というのは、ことば≪で≫で詩≪を≫ではなく、詩≪で≫自分の観念を書くひとだと、わたしは考えています。≪を≫を≪で≫に変えることができるひとがプロだ、と思うわけです。

 普遍≪性≫とか観念≪的≫とか、≪性≫とか≪的≫はいりません。

 マミさんは「破壊者なのだ」というけれど、まだまだ足りないと思う。ついさっきまでの自分さえも破壊しなければ! 詩の1行前を破壊してから、次の行に進まなければ! そして自分より大きいものを壊しつづけなければ、新しく生まれるものも小さくなってしまう。

 読者に共感などされない詩をわたしはめざします。世界で1番の数学者の数式は、2番めの数学者には理解できないでしょう。世界で1番の詩人はだれにも理解されず孤独でしょう。そして詩を書くのは、人間が「孤独」を追求する行為なのだ、とさえ思うのです。

 わたしは今回のマミさんの意見に100%同意します。

 だけど、あまり理論的にならず、マミさんにしかないリズムとスピードを爆発させてください。マミさんにしかない≪ひらめき≫と≪ときめき≫で、≪ことば≫という名の≪普遍性≫が破壊されるに至ると。年寄りの詩人は夢見ています。 

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅