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み ■ 秋亜綺羅  ※詩

04 /02 2009

 こんにちは。秋亜綺羅です。
 以前にこのブログで、じっちゃんについてのエッセーを書かせてもらいました。
 今回は、じっちゃんの死について、「み」というタイトルの詩です。
 じっちゃんが亡くなったのはわたしが小学校の高学年だったと思います。40数年前になります。じっちゃんの死はわたしにとって、家族、ひとの死と出会う最初でした。ものが壊れることは理解できていましたが、さっきまで目のまえにあった心が、消えてしまうことがうそのようでした。
 それからじっちゃんのことを思うと、じっちゃんがこちらに来たり、わたしがあちらに行ったり、といった気分が現れます。それどころか、じっちゃんがこちら、わたしがあちら、とすれ違いになることさえあります。不思議な感覚です。
 もちろんそんな感覚が初めっからあったわけではありません。これまでの年月がすこしずつそうさせてきました。そしてそれを、すこしずつ詩にしてきました。書き上げたのは2年ほど前になります。
 ちょっと話が変わりますが、昔わたしが詩ばかり書いて大学をさぼっていた時、上京してきた父に言われたことがあります。
──おまえは詩を書くのはいいんだが、すぐに雑誌に発表しようと焦っているだろう。詩壇に認められたいなんて思うな。言葉だってなん年も時間をかけて醸造されるから、味のある詩になるんだろう。
と。
 そう、それがこの、じっちゃんとの不思議な醸造された感覚なんだと、すこしですけれど思えるようになりました。その父も亡くなって久しい。こんどは父のことを書きたいと思っています。



み ■ 秋亜綺羅

舞台裏でのひとり舞台は
迷い舞台のまるいちゃぶ台での初めての手淫
白い手と白い匂いを押し殺そうとしながら
明るい1962年5月4日、ぼくは思想した
じっちゃんとぼくとの安堵感とか
霊安室の縁側にしゃがんでいた逆説の共同観念とか
すべての生物は死ねない、のではない
じっちゃんの喉頭がんを生かしていたのはぼくの誕生と呼ばれるたぶん出会いだっ
 た
生まれた朝、ぼくは紫色のクレヨンでじっちゃんを描いた
死ぬのはたやすい、とはまだ言うまい
いちもくさんに花いちもんめ、風はうたう
砂の上で死んだじっちゃんをかっこいいとおもう
それ以上の真実は詩では内緒だ
だけど先生が宿題を出した
あなたのおじいさんを犯すこと
そこでひと握りの言葉を捜していたことをぼくは告白した
紫色のクレヨンのくるおしさのなかで
お経にまみれていみじくも座っている
ぼくの存在が歴史を奪うわけじゃなし
瞬時の永遠でもない
じっちゃんがぼくを殺したフィルムと
ぼくがじっちゃんを殺したフィルムと
ふたつのフィルムを同時に映写していくと
確かめられるひとつの真実がある
別れの挨拶は

だったこと
それでぼくの詩は店じまいというわけだ
ふとぼくが手淫を覚えたとき
じっちゃんはふと
歴史を無視したのだった

ぼくは忘れない

あのときの砂をつめた紫色の壜に
ぼくは蟻を一匹飼っている
じっちゃんが思い出されると
ひと握りの砂から一匹の蟻がこぼれ落ちる
蟻は落ちながらたぶん砂をかみしめている
蟻はたぶん砂を吐きつづけている



あのときの言葉をつめた紫色の壜に
蟻は砂をひとつぶ飼っている
じっちゃんが思い出されると
ひと握りの言葉から砂がひとつぶこぼれ落ちる
追いかけてくる砂をかみしめている
蟻はそのとき砂よりも乾いた意志で
言葉を選びたい


というのは蟻のお腹から出た虫である

フィルムとフィルムのすき間から

砂がひとつぶこぼれ落ちる

墓場をマイ・ホームにして

走りつづけているのは

いつまでもじっちゃんと

ぼくだけなのでうれしい


というのは命令形か?
どうだろう

ぼくとぼくの幽霊との通信法は、
ぼくとぼくの幽霊との通信法は。
お互いが人格論を持つことである、
お互いが人格論を持つことである。
ぼくとぼくの幽霊とのあいだの霊媒は、
ぼくとぼくの幽霊とのあいだの霊媒は。
完全な記録。と不完全な真実である、
完全な記録、と不完全な真実である。
断片的な言葉と連続的な思想である、
断片的な言葉と連続的な思想である。

み、
み。


明るい1962年5月4日
死者の行進が砂の上に幻視されたとき
じっちゃんには見えたことが悲しかったし
ぼくには慰めだった
じっちゃんは届かない向こうがわで
ときどきみという
最近ではときどきみとうたう

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅