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アート・アト・ランダム⑤ 場所が美術を質問する ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
05 /26 2010
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場所が美術を質問する
──佐藤才子の「美術計画」
 
                           秋亜綺羅
 
 むかしになるけれど、わたしはある美術館から詩の朗読を頼まれ、断ったことがありました。「落書きもできないような美術館には、興味ありません」というのが理由でした。
 昨年旅行に行ったとき、「美術作品の上に落書きすると犯罪になります。落書きは壁にしてください」と書いてある、地方の古びた美術館がありました。「しゃれてますね」とわたしが館の学芸員にいうと、「あれは落書きです」。確かに、しゃれている。
 さて佐藤才子は、「美術計画」という名の美術展? を何度も主宰しています。毎回二十人ほどの現代美術家が参加しています。
 企画のまえの、佐藤の最初の美術行為が、場所を決めることだといえそうです。もちろんそれは、落書きもできないような美術館なんかじゃない!
 佐藤にとって町は、とっくに「美術」なのでしょう。町という名の美術と、自分たちの美術が、おたがいに絵の具になったり、まじり合える場所! 佐藤才子に選ばれた場所こが、「美術計画」の会場となるわけです。
 それは古い蔵だったり、使われていない倉庫だったり、廃墟だったり、廃船の捨て場だったり。
 最新の「美術計画」は、桂島という、松島の島のひとつ。廃校になった小学校でした。
 校庭も校舎も、窓から見える水平線も、みんな「美術計画」の会場です。
 わたしは、塩釜港から船で三〇分。一〇分ほど小道を登ってたどり着きました。
 校庭の奥に置かれた一艘の小舟。が佐藤才子の作品でした。草を踏みながら、ほかのひとの作品を壊しゃしないか。…近づきます。
 この舟は何百年もまえからここにあったんじゃないだろうか…。ふと見ると舟の底には、体長五〇センチほどの白骨化した魚が…。
 この魚と舟は、わたしと同じように、この小道を登ってきたのだろうか。水平線が、骨になった魚とわたしを、見ているのでした。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)5月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   

猫には鈴が似合うと思うよ

秋亜綺羅の長すぎるつぶやき
05 /24 2010
2010年5月24日()
 
こんにちは、秋亜綺羅です。きょうは雨。あすも雨だそうです。わたしが幼なかったころは天気予報が雨でも、テルテル坊主を吊るせば晴れたりしたものです。最近の予報は裏切らないので、ちょとつまらない。
 
沖縄の基地問題のニュースを見ていると、すこし不思議に思うところがあります。
 
ネズミ町内会を代表してHネズミがアメリカ猫に鈴をつけに行ったのですが、失敗して帰って来ちゃいました。いまにも泣きだしそうに、みんなに謝っています。待っていたネズミたちはみんなで、それを責めています。
 
以前の自民ネズミのように、猫にエサをやってご機嫌をとるやり方をせず、怖いけれど鈴をつけにいったのだから、すこしは慰められてもよさそうなものです。
 
わたしが待っていたネズミたちの代表ならこう言うんじゃないかと…。
「おつかれさま。自民ネズミと違って、あなたとわたしたちは目的がいっしょなのだから、また頑張りましょう。5月なんていわずに、1年でも、2年かかってでもやりましょうよ。わたしたちも本気でやりますよ」。
 
5月が終るからといってあきらめる理由は、なにひとつありません、よね。Hネズミさんも、「猫にはかなわな~い」みたいな結論を出さずに、「ごめん。もうすこし時間をください」と、いうべきじゃないだろか。
 
失礼しました。なにも知らない、モグラのつぶやきでした。
 
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秋亜綺羅の長すぎるつぶやき
05 /16 2010
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忘れてるぞ! 事業仕分け

秋亜綺羅の長すぎるつぶやき
05 /12 2010
2010年5月12日(水)
 
 えっと。ブログの更新をサボっています、秋亜綺羅です。
 すこしブログに本気になろうかな、と。4日に1度くらいは思ったりしています。ふふふ。
 いやぁ、こんなことをブログでやってみたいな、とかいう企画も無限にあるのですが、ね。が。ね。
 
 とりあえず、日録ふうに毎日すこしずつ、コメントしてみようか。とりあえず、…
 
 で、テレビのニュースでは沖縄の基地問題ですね。
 5月は無理だって…。だれも5月までにやれなんて、言ってませんでしたよね。だれですかね。5月なんて、勝手に言ったの? 鳩山さんひとりしか言ってないんじゃないの? 沖縄のひとたち、こんな大事なことを、5月までにどっちかにしろって言われたって、そりゃあ困るでしょ。なんで、5月だったんでしょ。
 
 で、日本全国どこでも、自分のとこに基地が来るの反対! みたいですね。沖縄県がかわいそうじゃん、うちの県に呼ぼうよ、というひとはひとりもいない。ようするに、アメリカ軍にいて欲しいとだれも思っていない、ということでしょ。
 国民投票して、①米軍に日本を守ってほしいですか ②あなたの地方に基地を作っていいですか。を、問えばいいんです。 
 ①が○で、②が×だったら、日本人は世界でいちばんの利己主義者だということです。そんなはずはない。つまり、①も×だということです。
 
 民主党さん得意の事業仕分け、「米軍基地」を忘れてます、よ。
 
 
  
 

アート・アトランダム④ 死刑囚が見てしまった国家  ■秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
05 /09 2010
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死刑囚が見てしまった国家
──劇団オクトパス「絞首台の上の馬鹿」
 
                         秋亜綺羅
 
 
 これは演劇評というわけじゃないし、舞台美術の話ってわけでもない。一枚の絵の話。
 劇団オクトパス「絞首台の上の馬鹿」は〇九年一二月、暗くて寒い真冬に、倉庫を改造した会場で公演されました。観客には小さな毛布と、使い捨てカイロが渡されています。会場全体が刑場のような雰囲気で、それはそれは、寒いのでありました。
 で、死刑執行されたはずの死刑囚が生きていた…。石川裕人・作の演劇は、そこから始まっていきます。
 死ななかった死刑囚に、ふたたび刑を執行すべきかどうか。その死刑囚のいる刑場のなかで、刑務所長と、刑務官と、医務官、牧師、検事のあいだで激しく論争されます。
「国家があなたを殺すのは、善悪を超えたところにあります」という検事に、死刑囚は言います。
「検事さん、国家ってなんですか。ぼくは国家が見えない。まったく闇のなかだ。見えないものに殺される。いちばん馬鹿のやられそうなことじゃないか。馬鹿のままで死になさい、ということだったんだ」。
 検事「わかりました。死刑執行を中止します。ここから出なさい」。
 意外な展開にみんなが驚くなか、死刑囚は外に出ようとするのだけれど…。出口のまえまで来て、立ち止まってしまうのでした。
「そう、あなたは出ていけない。あなたはいま、見えざるものがはっきり見えたんですね?」と検事。
「これが国家か、これが僕を殺す国家か」。
「そうです国家です」。
「…検事さん、僕を死刑執行してください」。
 死刑囚のまえに広がっていた風景とは…。
 寒さに身を小さくしながらも、一時間半も凝視し、立ち会っていた観客たちであった。
「そうです国家です」。
 観客席という名のカンバスに、観客という名の絵の具で、「国家」という名の一枚の絵画を、石川裕人は描いていたのでした。
 真冬の会場にはエアコンがついていたけれど、確かにあれは冷房だった。
 俳優たちがはけたステージで、検事は観客席にむかって言います。
「本日の死刑執行を終わります。みなさん、ご苦労様でした」。
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)4月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   (いちばん下の写真は、ステージから見た、開場まえの観客席
 
 
 
 
 
   
 

谷内修三による秋亜綺羅評

詩ってなんだろう
05 /05 2010
 
 こんにちは。秋亜綺羅です。
 日本の詩壇の最前線にいる谷内修三がブログに、季刊「ココア共和国」に掲載されている秋亜綺羅の詩を評しています。
 きょうはそれをすこし紹介したいのです。
 というのは、プロの詩人といわれる専門家が、詩と言語にこんなにも激烈に対峙して批評するものなのだ。そして批評とは作者を評価するのが目的じゃない。刃物より鋭いことばで対象を解剖し分析する。それは、自分自身の作品の次の一行のための闘いでもある。ということを感じ取ってほしいな、と思ったのでした。
 
 というのも、ブログで詩を書いているひとはたくさんいます。
 詩、なんて楽しいと思えばそれでいいじゃない。
 詩、なんて行を換えて日記を書けばいいんだよ。
 詩、なんて落書き帳でしょ。
 
 そう。ぜんぶ、そのとおりなんです。
 だけれど、わたしがお邪魔してきたたくさんのブログの詩人のなかには、もっといい詩を書きたい。とか、詩が書けなくて悩んでいる。とか、どうすればプロの詩人になれるだろう。とか、と思いはじめているひとも少なくないようです。
 コーヒーだって、おいしきゃいいんだけれど、ほんとうのコーヒーを知ってしまうと、世界で一番のコーヒーを探してさまようことになる。…というわけでしょうか。
 
 そんな、詩の世界に半分踏み込もうとしている方たちに、ちょっと読んでもらいたいなと思ったのです。
 
 以下は、引用(部分)です。
 
 
 
 
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
 
秋亜綺羅「ドリーム・オン」
 
 「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。
 「シッポがないのでシッポを切る」は、正確()には、あるいは「流通言語」的には、
あなたにはシッポがないので、想像でシッポがあると仮定して、それからその想像のシッポを切る。そうすると、「いま」のあなたそのものになる。
ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
 そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。
 そんなことが、ふと、思い浮かぶ。
 秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。
 
 
 
秋亜綺羅「あやつり人形」
 
完璧な暗闇で目をつむると
水溶性の映画がやってくる
世界でいちばん明るい場所がそこにある
 
 「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
 「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。
 秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。
 
 
 
秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る」
 
 秋亜綺羅のことばは「書きことば」だから、どんどん飛躍する。暴走する。そこには漢字だけではなく、カタカナもまぎれこむ。
 
  ただし、自分の手相を忘れて相手の手相しか視なくなったタロちゃんと
  いう名まえの友だちは、オナニストでしかない。ぼくの初恋のすずめち
  ゃんチロちゃんは舌を切られて死んだ。きみには、自白する自由があ
  る。千口ちゃん。

 ここには何が書かれているか。「意味」は何も書かれていない。ただ、「書きことば」は「文字」をかりながら、「文字」があることによってはじめて可能な運動をすることができるという、その可能性だけが書かれている。
 その可能性を書いているだけなのである。そして、その可能性を明るみに出すことだけが、詩の仕事なのである。
 「意味」なんていらない。ことばは、「意味」を捨てて、動いていける。「意味」という「書物」を捨てて、「意味」という「故郷」をすてて、「意味」と「故郷」が持たなかったものをつかみ取りながら、むさぼり食いながら、ことばの「街」を肉体化する──それが秋亜綺羅が寺山修司から引き継いだものだ。
 
 
 以上、引用終わり。
 
 
    

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅