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アート・アトランダム⑪                       秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
11 /24 2010
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税務署さんに見せたくない美術はあるかな?
──わたしんちの場合
 
                                       秋亜綺羅
 
さて。わたしが死んだとしたら、遺族で奪いあうような美術は、わたしんちにあるのでしょうか。
まず。事務所のドアを開けると、無造作に二枚のパネルが置いてあります。一枚が一三〇㎝×七四㎝くらい…。焼け焦げた新聞紙がバウムクーヘンのように丸められていて、それがたくさん並べて貼られています。そのうえに、たばこの火で焦げたような布きれが覆われています。へんな形で、よくわかりません。これは松尾留美子が置いていったものです。ガラスも何もないので、埃だらけです。訪れる客も「これはだれの作品ですか」とは聞きません。「これはなんですか?」ですね。二〇歳のころ西武新人賞だかをとった作品らしいけれど…。松尾留美子は、仙台駅にある伊達政宗の騎馬像をつくったひとです。
つぎは。墨の前衛美術家・斉藤文春の作品。いく種類かの濃淡の点が無数に置かれています。それだけです。よくわかりません。斉藤文春展のパンフレットの原稿を書いたので、お礼にもらったものです。
で。斎正弘の鉄の作品もあるぞ。宮城県美術館の学芸室に家内と行って「斎さん、結婚のお祝い、なにか頂戴」と。もらってきました。もはや錆びてます。船のようで、動物のようで、ただのカタマリのようで。よくわかりません。斎正弘ですから、一〇〇万円は下らないでしょう。わたしはお金は嫌いです。
あ。もひとつ、思いだしましたよん。ひきだしの中に、漫画家・いがらしみきおの原画が! これはですね、二〇年もまえになるかな。スーパー会話ゲーム「ぼのぼの」のCDの表紙を制作することになって、その時あずかった原画です。知らんぷりして、返さなかったんですね。内緒ですぉ。ふふふ。
それにしても奈良美智なんかより、ずっといいと思いますよね。わたしには奈良美智はマンガにしかみえないし。けっこう挑戦的ですね、秋亜綺羅くん。よくわからないけれど。
 
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)11月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   写真は上から、松尾留美子の作品。
          斉藤文春の作品。
          齋正弘の作品。
          いがらしみきおの作品。
 
   

カクテル・ポエム 「気違い」                     秋亜綺羅

詩の朗読
11 /19 2010
 
 
 こんにちは。秋亜綺羅です。
 わたしのカクテル・ポエム(詩の朗読)がYouTube にUPされたので、時間の許す方は覗いていってもらえるとうれしいです。
 昨年の11月に、仙台のエルパーク仙台で公演されたものです。
 
 ということで、何回かに分けて紹介させてもらったカクテル・ポエム「ドリーム・オン」もきょうでお仕舞いにします。
 いささかマニアックな世界でした、ね。ずっとお付き合いいただいたよい子のみなさんも、はじめからスルーしている賢明なみなさんも、これでおわりです。お疲れさまでした。
 
今回は「気違い」という詩です。わたしの尊敬する音楽家・只野展也が即興で演奏してくれています。
公演の1週間まえに只野が稽古を見に来てくれたとき、当日楽器を持ち込んでくれることをお願いしたのでした。そのとき詩を一篇渡していたのだけど、わたしが朗読したのは別のもの。
只野は1行の詩も見ないまま、演奏に入っています。わたしの詩がどこで始まって、どこで終わるのかも知りません。
わたしは只野展也の演奏だけに集中して朗読することになりました。
伊藤文恵と斎木良太のふたりの俳優も、そんな殺気?を感じてくれているのが、わかります。
 
詩のタイトルは、「気違い」。
精神病院に入院させられた「気違い」が、まわりのあんたたちこそ気違いだ、と叫んでいる詩です。気違いになりきっているのはどこのどいつだい。わたしだよ。
 
 
企画・構成=丹野久美子
出演=伊藤文恵、斎木良太
シンセサイザー演奏=只野展也
詩=秋亜綺羅
制作=劇団I.Q150
 
 
 
 
 
 
カクテル・ポエム「ドリーム・オン」
気違い
秋亜綺羅
 
 
いつだって会議は仲間からはずれるべき奴をひとり決定することで成立する
その奴というのはまさにぼくでしかない
というのが今回の会議の結論らしいのだ
死んだ鳥のようにぼくを寝せてしまえば
会議はベットのまわりででもつづけることができるからだ
 
ぼくは街路樹の木の葉たちがみんな虫にみえる
安心して街の空気を吸っているのは木の葉たちでぼくではない
だからぼくのお腹には虫がいるんじゃないかとおもう
そうおもってしまうとぼくは青白くて痩せている
友人たちはそんなぼくをみてお腹に虫がいるんじゃないか
医者に見せたほうがいいといって看護婦を抱いて酒をのんでいる
そんな時ぼくは友人たちの顔が街路樹の木の葉に見える
ぼくの主食は街路樹の木の葉なので
木の葉が手に入らなければ呪ってでも手に入れる
長生きできないのかも知れない
どうせ長生きしないのだからお酒をたくさんのむ
友人たちはぼくがとても青白くて痩せているという
木の葉のように飛んでしまうんじゃないかという
 
眼を瞑っても開いても在るものをぼくは夢と呼ぶ
ぼくは空を飛ぶ時いつも
仰向けの魂と一緒に青い肉体まで飛んでいくので
友人たちの老いた後姿を記憶にとどめるのが
精一杯であるほんとうだ夢じゃない
 
そんな夢から醒めるとベットのまわりには友人たちと
医者と看護婦とが
立ったまま会議している
 
頼むからぼくも仲間にいれてほしい
ぼくはあなたたちと何も変っちゃいないぼくは虫だ
頼むからと頼んでもぼくの望まない注射液と薬が
友人たちと医者と看護婦の笑い声と区別がつかなくなって
お腹のなかに注ぎ込まれている
ぼくは目を醒ますことを許されない
神よ!
とぼくは叫ぶ!!
木の葉たちはそれをうわごとだろうという
 
気違いというのは
ぼくを神様だと信じているぼくの仔猫のことをいうのではないだろうか神よ
気違いというのは
もう少しであなたに助けられたはずのぼくの子どものことをいうのではないだろうか神よ
気違いというのは
何度もあなたとの心中を試みたぼくの妻のことをいうのではないだろうか神よ
気違いというのは
あなたが怖くて故郷に逃げ帰ったぼくの妹のことをいうのではないだろうか神よ
気違いというのは
神に誓ってなどと平気でいうぼくの立派な片親のことをいうのではないだろうか神よ
 
 
   

カクテル・ポエム 「四匹の黒犬が黙る」              秋亜綺羅

詩の朗読
11 /15 2010
 
 
 
こんにちは。秋亜綺羅です。
ちょっとブログをサボっていました。
で。きょうは、カクテル・ポエム『ドリーム・オン』の後半です。
いよいよ、ますます、マニアックですよん。
ヒマじゃないひとは観ないほうがいいかもです。
 
昨年の11月に、仙台のエルパーク仙台で公演されたものです。
 
今回は、「四匹の黒犬が黙る」という詩です。
この詩は、けんめいに聞いても意味がとれない詩です。
もともと意味がないのですから。
なぜ「四匹」かというと、「四」と「匹」が似ているからです。
なぜ「黒犬が黙る」のかというと、
「黙」という文字は「黒」と「犬」でつくられているからです。
しかも点が4つあるので、「四匹」というわけです。
そんなナンセンスの繰り返しです。
 
【ビデオ()
まずわたしが、詩を棒読みするのですが、
ふたりのスタッフが、同メーカー、同機種の2台のテープレコーダを持ち込んで、
同時に録音をしています。
ふたりの舞踏家は、2m×6mの白いスクリーンに張りついたまま、動きません。
そこに、あらかじめ用意されたテキスト中心の映像が映されます。
それだけです。
 
【ビデオ()
さて。2台のレコーダに録音されたテープは巻き戻されます。
同時に再生を開始します。
会場は完全暗転になります。
暗闇の中で、白いスクリーンだけが青く光っています。
スクリーンには、夜光塗料が塗られていたのです。
ふたりの舞踏家がすこしずつ動きはじめます。
すると、スクリーンには影が残されているのです。
過去の影と、現在の影が、ゆっくりずれていきます。
現在と過去は、暗闇で踊りつづけます。
 
2台のレコーダから流れる2つの声は、すこしずつずれていくのが
わかります。
2台の機械ですら、同じものを聞いてはいないのです。
100人の観客ならば、100の詩を聞いていた。ということになります。
ずれは、どんどん激しくなり、
文字も、ことばも、声も、音も、もう意味をとることは不可能です。
ここにあるのは、詩。だけです。これが、詩。です。
というのがこの、カクテル・ポエムの目論見だったというわけです。
 
家庭用のビデオのため、夜光塗料の光をじゅうぶんに捕えていません。
部屋を暗くしてご覧いただくと、見やすいようです。
 
 
企画・構成=丹野久美子
出演=伊藤文恵、斎木良太
詩=秋亜綺羅
映像=星川律子
制作=劇団I.Q150
 
 
 
 
 
 
カクテル・ポエム「ドリーム・オン」
四匹の黒犬が黙る
秋亜綺羅
 
 
淋しいという文字は木がふたりで住んでいるのにどうして淋しいのか、なんてことじゃなくて、妹とふたりで海で溺れたときの淋しかったことを考えているのだ。ぼくは次の夏、ひとりで溺れて死ぬ気だったとき、弱い者だけが泳ぎの方法を知ればいいのだ、と思った。エイ、ホー。エイ、ホー。エイ、ホー。そういうわけでぼくは泳げるようになったけれど、過去にも未来にもいける泳法なんて未だ知らない。父島、母島、鳥の島。犬のぼくは青空の鳥のように泳ぎ続けるのだが、この程度では、永遠までの遠泳は無理というものだ。あおい空を見上げる。あおい。あおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあおあお必殺マックオペレータは<あ>と<お>を打ち違えないこと。吠えたいくせに犬かきをして四匹の黒犬が黙る。尤も犬も大きくて太い丈夫なペニスは持ち合せていないので、中山峠を越えるともうぼくは六回もセックスはできない。シックス・ナインなのだ。相手は猫でもいいから描いてみる。血で満たされた皿をかぶった河童でもよろしいが、ここは海でしかないので海豚を相手にしたほうが好ましい。相手は手相と書き換えてもこの場合、かまわない。ただし、自分の手相を忘れて相手の手相しか視なくなったタロちゃんという名まえの友だちは、オナニストでしかない。ぼくの初恋のすずめちゃんチロちゃんは舌を切られて死んだ。きみには、自白する自由がある。千口ちゃん。ところでぼくの友だちといったら、ひきこもり中の透明人間くんとか、死んだふりが好きな幽霊くんとか。宇宙人のチカは千人力だ。ぼくは淋しいから、だれかと一緒に溺れたい。夕方の久方ぶりの雨ふり、烏の鳴く鳥の島を過ぎ去っても、未来は未だ来ないまま過去となっていった。過去はカコ、カコ、となく。実際、過去はカエルだった。ぴょんと日付変更線を一旦亘ると一日がやって来る。完壁な璧。ぼくは犬だから漢字を間違えてもだれもとがめてくれない。矛盾という名の武器。逆説法と呼ばれる逆立ち。愛という曖昧な味。アイ・マイ・ミー。雰囲気、零。ぼくの虱は風に飛ばされてトリップ。国家という家に囲まれたぼくはもう囚人ではないか。困ってしまう。原因は、緑の縁側がぼくの国家だという事実ではなく、ぼくが犬だったという真実らしい。ここはどこだ。ここはココア共和国。きょうはここらでココアにしよう。囚われたゴキブリさんたちがみんなで羽ばたけば、既成概念としての家(ゴキブリほいほい)は飛んでいくぞ。問題は、気づくか、傷つくかだ。これはもうまるで詩だな。詩とは言葉の寺と書く。詩人は寺の坊さんなのだ。そのほかのだれも、ぼくの野たれる後ろ姿を監視してはいない。野たれる犬は、犬のことばでいうならば、自由である。あおあおあおあおあお。木、林、淋しい森、妹はいつまでもひとりで立っている。
 
 
   

ゾウリムシの友だちはどこのどいつだい?

秋亜綺羅の長すぎるつぶやき
11 /05 2010
2010年11月5日(土) 
 
 こんにちは。秋亜綺羅です。
 「あのひと検索 スパイシー」というネットサービスを見つけたので、
 「秋亜綺羅」を検索してみました。
 
 
 「こんな人と関係があります」ということで、
 寺山修司さんや、いがらしみきおさんがあるのはいいのだけれど、
 すこし下のほうを見ていくと、
 なんと、ゾウリムシさんがいるのです。
 そのゾウリムシさんの紹介を見ると、
 「ゾウリムシは、その名のとおり草履(ぞうり)のような形をしている繊毛
  虫 Paramecium caudatum の和名、またはその近似種を指す」
 と、あります。
 
 ゾウリムシさんて、タレント名じゃなさそうですね。
 これって、ほんものじゃ、ないんかい。?
 
 ぐわ~ん。ゾウリムシの友だちって、どこのどいつだい?
 わたしだよ。
 
 
   
 
 

アート・アトランダム⑩ 原稿用紙に映画は写るか       秋亜綺羅

美術評/アート・アトランダム
11 /02 2010
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原稿用紙に映画は写るか
──吉増剛造の詩
 
                          秋亜綺羅
 
先日、ある高校の国語の授業によばれて、「世界で一番の詩人は、二番めの詩人に理解されないでしょう」と生徒たちに話したら、「世界で一番はだれですか?」「吉増剛造だと思うよ、たぶん。わたしには理解できないけど」と答えました。まあ。わたしが二番だよと言いたかったんだけど、ね。
 九月十七日、八戸市美術館の「飢餓の木展」に出かけて来ました。初日だったのかな。
 吉増剛造の新作の映画詩「八戸、蟻塚──章伍さんと」を観たいためでした。
 吉増剛造の「飢餓」をテーマにしたこの作品は映画というより、詩! でありました。詩はことばを道具にするアートだけれど、ことばとは「文字」でも、もちろん「活字」であるとも限りません。いま吉増のことばは、音(声も)であり、映像であり、光と闇であり、気配だったりする。そう感じました。
 これを既成の映像論や詩学で語っても、ムダというものです。カメラのフレームどころか、スケールさえ壊してしまっている…。
 ではさて。吉増剛造の「文字」の作品は、どこに行ったのでしょう。それは、美術の領域なのでしょうね。おそらく。(写真下)
 わたしの場合だと、文字(活字)は詩をつくるためのメモだったり、詩が終わったあとの記録だったりするのだけれど。
 吉増のそれは、確かにメモ、台本のようにみえなくはないです、ね。だけど、ちょっと美しすぎるのだ。
 子どもの頃、最先端の技術である集積回路を見て感動したような、そんな想い。
 また、七〇年半ばに出版された吉岡実の詩集「サフラン摘み」。漢字と仮名のバランス。行の長さのセンス。計算したわけじゃないだろうけれど…。開けた瞬間、詩は行きつくと美術になるんだ。と、そんな想い。
 吉増の手書きの原稿を眺めていると、世界で一番、詩に飢餓しているのが吉増剛造。ということが視えてくるようです。
 
 
 
 ──こんにちは。秋亜綺羅です。
   月刊「ACT」(仙台演劇研究会)10月号に書かせてもらっているコラムです。
   編集部には同時掲載の許可をもらっています。
   美術を知らないくせに、遠慮も知らない、ナマイキな原稿です。
   怒りたくなったひと、または興味のない方にはごめんなさい。
 
   写真は上から、集積回路の一種。
          吉岡実詩集「サフラン摘み」から。
          吉増剛造の肉筆の詩篇。
 
 
     

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅