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青森での現代詩ゼミナールのチラシが届きました。

おしらせ
08 /28 2011
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 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 前回、お話ししていた、「現代詩ゼミナール ”東日本” in 青森」 のチラシが届きました。
 シンポジウムや詩の朗読があります。 日本現代詩人会の学会みたいなものですから、趣向のちがう方には退屈かもしれません。
 津軽三味線の山上進と、舞踏の福士正一、伊藤文恵の競演というのは、ちょっとどきどき。 興味しんしんですよね。
 
 わたしも10分だけ時間をもらって、詩をやりますよ。 伊藤文恵といっしょに。 ね。
 
 お近くの方、だまされたと思って、来てみてください。 だまされますから。 ふふふ。
 くわしくは、上のチラシを拡大して見てみてください。 懇親会へもぜひどうぞ。
 
 10月8日(土)、連休の初日ですので。…
 
 わたしがいまのところ、「楽譜」 として用意している詩は、以下のものです。 金魚と恋人が津波で死にます。 残されてしまった 「わたし」 だけが、この詩の唯一の風景です。 伊藤文恵とわたしが、当日どのように 「演奏」 するのかは、ふたりですら、まだ知りません。
 
 ちょっと長い詩です。
 
 
 
 
 
津 波
                                     詩   秋亜綺羅
                                     舞踏  伊藤文恵
 
 
昨年の夏祭りで
恋人といっしょに買った
一匹の赤い金魚は
血の色を知らなかった
 
三月十一日、午後三時十一分
そのとき、わたしの家の金魚鉢には
海が近づいていた
 
金魚鉢に水平線が飛び込んで来た
そこには、水溶性の海岸があった
 
そのとき
赤い金魚をいっしょに買った
恋人は
金魚とも
わたしとも
いっしょにはいなかった
 
そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した
 
部屋の白い壁には
海の影が動いていた
 
そのとき、一匹の赤い
わたしの金魚は
海水魚になることを拒んだ
 
金魚は遠くなる意識のなかで知るのだった
血の色は海の色だったことを
 
すべての生物は、生物のふりをしていた
すべての時間は、時間になりすましていた
すべての風は、風のなかにひそんでいた
すべての水平と地平は、鳴り響く警告音とカクテルされた
 
ひとつぶの砂より小さな地球が
ここにはあった
 
ままごとをしていた子どもたちは
おとうさんになって、自分を探した
おかあさんになって遠くまで叫び、泣いた
 
子どもの役に戻ると
おとうさんとおかあさんに抱きついた
 
抱きつけない子は
孤児の役が始まった
 
すべては、始まったばかりだった
 
流されてしまった子は
家族も待っていない
海に帰っていくのだった
 
すべては、帰っていくしかなかった
 
ごはんだよと呼ばれて
ままごとをおしまいにして
手をひかれて
帰っていくのだった
 
潮が引くと
がれきでできた地平線が残った
 
太陽がいっぱい
太陽がいっぱい
太陽がいっぱい
太陽がいっぱい
 
主人公の犯罪者は
砂浜で囚われるべきだった
 
がれきたちは魂のツイッターで
つぶやくことしかできなかった
 
みんなといっしょ
でもひとり
 
ちがうけど同じだね
 
嫌いだけど好き
 
冷やし中華終わりました
 
スパイは、猫の死体と
未来である
 
かわるとわかる
わからないとかわらない
 
オモテのウラはウラ
ウラのウラはオモテだ
オモテのオモテはなんだろう
 
紅茶の香り、好きな音楽、絵画や写真。
の楽や写。香絵な音り紅、好真、画き茶
、真絵。楽の好、紅香や写茶りき画な音
 
鳥だ! 飛行機だ! いや、
 
海に隠れるなんてずるい!
と、両親を流された少女は
かくれんぼうの、鬼になった
 
ここだよ
と、両親はすぐに少女の頬をなでて笑うのだった
いつものかくれんぼうだったなら
 
そのとき
赤い金魚をいっしょに買った
恋人は
金魚とも
わたしとも
いっしょにはいなかった
 
わたしの誕生日のためにつくりかけた生クリームたっぷりのチョコレートケーキ、未遂
ひとごみの街のなかでたったふたりきりで話ができるツールってなんだろうねといっ
 て思いついた糸電話、未遂
あなたの両手でうしろから目隠しされたまま聞こえてくるプロンプターのささやき、未
 遂
怖がらなくてだいじょうぶ。 映画はいつか終わるのだから、未遂
読者はきみひとりだよといって書いてくれたあなたの詩に、お返事として絵を描いて
 いるところです。 あなたにしか見ることができない絵です、未遂
どっちに行ったってきみに会えるよ。 だって地球は丸いもの、未遂
 
そのとき、わたしの恋人は
人魚になろうとは思わなかった
 
恋人は死んだふりして
目をつむって、目をつむる
暗闇のなかで目をつむり
ちょっと笑ったふりして
目をつむった
 
目をつむれば
寒くもないし
おなかもすいていない
すこし暗いけれど
好きなひとの顔を
見ることができる
 
透き通るような死化粧がよく似合うよ
このまま舞踏会ができそうだね
みんな集まっているんだね
 
長い黒髪の匂いを追いかけた
わたしのこころは恋人の吐息のなかにある
 
いちばん愛しあった夜は
明けないでいてほしい
 
ひとつぶの砂より小さな地球が
ここにはあった
 
ふたりだけ取り残されることができたなら
割れてしまった金魚鉢に
もういちど赤い金魚を買おう
 
砂のない砂漠で
黙って手をつないでいよう
 
光のない都会で
おたがいの影を合わせよう
 
会いたいという名の孤独
会えないという名の約束
 
太陽がいっぱい
 
帰りたくないのでハサミで切った世界地図の日付変更線は
波にさらわれることなどないだろう
 
太陽がいっぱい
 
瞬きをすれば真似をする恋人の見つめるような瞬きは
波にさらわれることなどないだろう
 
太陽がいっぱい
 
沈む一瞬好きなひとを思い浮かべた恋人のくちびるは
波にさらわれることなどないだろう
 
太陽がいっぱい
 
わたしたちのアイ・ラヴ・ユーは
波にさらわれることなどないだろう
 
 
 
 
 
 
 
 
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詩人の瀬崎祐がわたしの詩 「津波」 を評してくれました。

詩ってなんだろう
08 /20 2011
 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 詩人の瀬崎祐が、自身のブログ 「風都市」 で、季刊ココア共和国第7号の、わたしの詩 「津波」 を批評してくれています。 ので、勝手に転載しちゃいました。
 
 
 
 
 (以下転載)
 
ココア共和国 7号 (2011) 宮城  「津波」  秋亜綺羅

 この作品はタイトルで容易に判るように今回の東日本大震災をモチーフにして書かれている。 秋は自身のブログ 「ココア共和国」 で自らの被災状況をリアルタイムで発信してもいる。 それは記録である。 この 「津波」 は詩作品である。
 130行あまりの長い作品。 「昨年の夏祭りで/恋人といっしょに買った/一匹の赤い金魚」 を入れていた金魚鉢に海が近づいてきて、水平線が飛び込んできたのである。
 秋が実際に恋人といっしょに金魚を買ったのかどうか、死を思わせるような記述がなされている恋人が実際にどうなったのか、いや、実際に ”恋人” が存在しているのかどうか、それはどうでもよいことであるだろう。 これは作品なのだから。

   太陽がいっぱい

   帰りたくないのでハサミで切った世界地図の日付変更線は
   波にさらわれることなどないだろう

   太陽がいっぱい

   瞬きをすれば真似をする恋人の見つめるような瞬きは
   波にさらわれることなどないだろう

   太陽がいっぱい

   沈む一瞬好きなひとを思い浮かべた恋人のくちびるは
   波にさらわれることなどないだろう

 やや感傷的とも取れる詩行も混じってくるのだが、作品は作者を越えてうねりはじめている。それでいて、たしかに秋の詩作品になっている。
 こんなことを書くのは、当事者の方々には心ないことであるのかもしれないのだが、作品であるからには、こうして ”現実ではない時点” で詩を書いて欲しいと思う。詩は ”日記”ではないし、 ”忘備録” でもない。 それは現実に凭りかからない地点で、それ自身で立ち上がっているものべきであると思うから。 それでこそ、風化されない作品になると思うから。
 
 (以上転載終わり)
 
 
 わたしの詩の良し悪しは別として、瀬崎の詩に対する考え方は、100%そのとおりだと思います。
 
 全国の詩誌や新聞やTVなどで、震災に関する詩人の作品が多く取り上げられるけれど、被害がどうだとか、何100人死んだとか、とにかくがんばろうとか…。 戦時中の詩もこうだったんだろうな。 と考えてしまいます。 夕焼けがきれいだからといって、「真っ赤な夕焼け」 と書いても詩じゃないことくらい、小学生だって知っていますよね。
 
 詩人たち本人は本気で書いているわけだから、いいとして…。 マスコミのひとたちはどうして簡単に、詩として取りあげちゃうのだろう? 自分たちが被災地に対峙して書いた取材メモ以下のことばたちを、ほんとにこれでいいの? と疑わないで詩として掲載しちゃうことも、まるで戦時のようですね。 これだったら、新聞記事たちのほうが、ずっと詩ですよ。 それを朗読する女優だって、ほんとにこれ、読むわけ? と疑っていたんじゃないかな? 新聞記事を読みつづけたほうがずっと、感動的ですから、ね。
 
 ただ、だけど。 わたしの 「津波」 というような詩にも、危険があります。
 「ものと生命」、「ことと死」 をとりあげたいために、デフォルメしています。
 地震も、放射能もあえて書いていません。 今回、ひとの命を奪った 「津波」 だけを書いています。 実際なら金魚鉢は、地震で落ちるか、すくなくとも水のほとんどがなくなっているはずです。 それにもふれず、平穏な金魚鉢に海が近づいてくる。…というところから、詩ははじまります。
 
 金魚と恋人は、津波で死に、「わたし」 だけが生き残ります。 その三者の物語です。 田んぼまで流れてきた船や、自動車や、家や、倒木のことなどは、わたしの貧困な想像力でぜんぶ引き算して、そこに浮かんできた物語です。 「命」 だけを扱いたかったのです。 がれきにも 「命」 を与えてしゃべらせています。
 
 この手の詩は、ほんとうの被害者には腹が立つものです。
 
 いままでだれにも話していないことですが、わたしが学生のころ、詩を書く女の子と同棲していて、アパートの屋上から飛び降り自殺されたことがあります。 運よく未遂でした。 毎日病院に看護に行くわたしを、友人が慰めようと、当時流行っていた中島みゆきの 「時代」 という歌をなんども聞かせようとするのでした。
 
  まわるまわるよ 時代はまわる
  別れと出会いをくり返し  
  今日は倒れた旅人たちも
  生まれ変わって歩きだすよ
 
 この歌って、ほんとの悲しみを経験したことがないヤツが書いているよな。 と。…腹が立つばかりでした。
 
 いま、わたしもそう思われるのを覚悟しながら、「津波」 を書きました。
 わたしの身勝手だけれど、これを書かないと、次の詩が書けないと思ったのです。
 
 詩は、朗読してはじめて詩になる、とわたしは思っています。
 10月8日に青森で、伊藤文恵の舞踏といっしょにこの詩を、やらせてもらうことになりました。 近くまた、このブログでご案内しようと思っています。
 
 
 
 
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鳥だ! 飛行機だ! いや、 斉藤文春だよん。

秋亜綺羅の長すぎるつぶやき
08 /07 2011
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2011年8月7日(日)
 
 これは、なんだ! と思ったでしょ。
 美術ですよ。
 
 なんでだ?! って?
 だって。 これを美術といわなかったら、あと、なんといったら
 いいんですか。
 
 仙台七夕が終わると、9日から現代美術家・斉藤文春の個展がはじまりますよ。
 七夕に飽きちゃったひとには、とくにおすすめです。
 色のない世界です。
 
 今回は、大きいものでも1㍍四方くらいの大きさみたいです。
 
 で。 美術などなにもわからないわたしが、当日配られるパンフレットに、
 文章を書かせてもらっているので、紹介しちゃいます。
 
 
 
 
 
 
錯覚を殺せ! これは、墨でしかないぞ!
                  秋亜綺羅
 
 
 震災だとか、原発事故だとか、詩の世界ではずいぶん騒いでいるひとたちがいます。 美術の世界はどうだろうか、よくわかんないけれど…。
 けれど、美術だって、演劇だって、文学だって、はじめっから最後まで、生と死の限界をさまよっているわけですからね。
 地球(アース)が揺れたくらいで、アートが吹っ飛んじゃってたまるかよ。
 
 日常には錯覚がたくさん転がっていますよね。 その錯覚だけを拾いあげて並べていくと、詩になったり演劇になったりします。 絵でも、写真でもそうです。 富士山が描かれた絵は、カンバスのうえに絵の具が塗られているだけなのに、いい富士山ですね、とか言われたりします。
 でもね。 錯覚がアートなんじゃなくて、錯覚という名の道具を使っているだけで、ね。 ひとは言葉という道具を使って会話するけれども、詩人は錯覚を使って詩を書いているわけです。 あたかも言葉を使って詩を書いているようにみせているけれども、それだって詩人が仕掛けた錯覚、というわけです。
 
 ところが、1990年ころからの、斉藤文春の美術は、その錯覚すらを許さない。 というより、観覧者は自分で勝手に錯覚を作り出してしまうか。 それができなければ、まったく迷路に入ってしまいます。 迷路というのは、出口があるから迷路なわけで、出口が見つからなければ、地獄に堕ちることになるわけです。 わたしは、ずいぶん堕ちそうになりましたよ。
 
わたしがスパイしたところでは、斉藤が使用している筆は、90年代は先端を適度にカットした毛筆。 05年あたりは、筆ではなく、割りばし。にじみを加えるために、ちょっとドローイングぽい手法も使っているようです。 そのあとは、竹の筆、わらの筆など…。
 「面的な拡がりが現れてしまった場合でも、線や点の時間的集積であることを意識しています」 などと、むずかしいことを、斉藤は言っていますぜ。
安易に立体的にならない、スケールの巨大さは、そんなところにあったのです、ね。
今回の作品たちに使用された 「筆」 は、なんと 「タオル」 だ! などとは、口が裂けても言っちゃいました。
 
 09年、斉藤文春は、塩竈市桂島の廃校になった小学校を会場にして、パフォーマンス的な美術を展開しています。 教室の床じゅうに、レントゲン写真用のフィルムを数百枚配置しています。2週間ほどかけて、教室に入ってくる日差しや、すきま風や、夜と昼の寒暖の差などで、フィルムはわずかずつ、変化をしていきます。窓からは水平線が見え、その瞬間の天気でまた、作品が様子を変えていくのでした。
 今回の個展では、その日差しや、すきま風や、寒暖の差や、水平線や、天気(気分)の役割を果たすのが、観覧者である、あなた自身だというわけです。
                                     (あきあきら・詩人)
 
 
 
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季刊ココア共和国vol.7

季刊 「ココア共和国」
08 /02 2011
 ちょっと、ごぶさたしすぎました。
 
 きょうは、「季刊ココア共和国 vol.7」  の発売のお知らせで~す。

 宣伝です。 ごめんなサイ。
 「季刊ココア共和国」 は、秋亜綺羅の個人誌です。
 
 左の写真が表紙で、右がウラ。 イルカさんと、マンボウさんと、なぜか金魚さんが泳いでいます。 ウラの右のすみっこにも、金魚さんが…。
 
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(売切れになっていてもすぐ入荷いたします)
 
 
季刊ココア共和国 vol.7
秋亜綺羅(著), 恋藤葵(著), 谷内修三(著), 野木京子(著), 高取英(著), 藤川みちる(著), 柏木美奈子(編集,イラスト)
 
2011年8月1日発行
 
価格:¥525
 
商品の説明
内容紹介
  詩人・秋亜綺羅による個人季刊誌第7号。
  右開きからが詩。左開きではブログを編集。
  招待詩として5名の詩人が登場します。
       ※
  谷内修三野木京子高取英の3人は、詩壇で知らないひとはいないでしょうから、あらためて紹介はしません。
 谷内とは、谷内が現代詩手帖賞を受ける以前からの知人です。 池井昌樹と3人で、詩論の違いでよく大喧嘩をしていました。
 野木京子とは、野木がH氏賞を受ける以前に仙台で会っています。 無名だったころの野木の詩を読んで、「あなたの詩は、とんでもなくすごい」 といった記憶があります。
 高取英とは、高取が寺山修司の人力飛行機舎に入り、のちに劇団月蝕歌劇団をつくる以前からの 「友だち」 です。 高取はツイッターで、わたしのことを 「お友だち」 と書いていますが、わたしは、異性の 「友だち」 にしか 「お」 はつけません。 ま、そんなことは、どでもいっか。
      ※
 恋藤葵は、宮城県石巻市の高校2年生。 お友だちです。 昨年夏、宮城県の高校演劇部を集めての研修会で、わたしの受講生のひとりでした。 宮城県詩人会の朗読会にも参加してくれました。 石巻といえば、南三陸町、気仙沼市と並んで、被災地の代表? です。 わたしは、恋藤葵を孫のように可愛く思っていたので、震災直後から毎日、メールと、電話をしまくっていました。 が、無事を知るまでしばらくかかりました。
 いまは、大量発生しているハエと戦っているそうです。 詩は、ケータイのブログに発表しています。
 今号掲載の詩は、道に落ちている 「成長途上の幼い耳」 や 「幾多の足に踏まれた鼻」 や、目や、指や、舌や、顎や、頭皮をひろって、ズボンのポケットに入れていく。 というものです。
 「拾ったモノ/全部を/合わせたから。//これを僕に/しよう。」。
       ※
 藤川みちるは、ココア共和国第5号に小詩集を発表直後、宮城県詩人会主催の第1回YS賞を受賞しています。 お友だちです。
 わたしと 「デート」 しているときにも、ケータイをとり出して、詩を書き始めます。 それをパソコンに飛ばして、編集するみたいです。 まるで掛け流しの天然温泉のように、ことばは溢れるばかりです。
 わたしが読ませてもらっただけでも、詩集にすれば何千ページにもなると思います。
 推敲なんて、まだ教えないほうがいいだろうと、ちょっと悩んでいるところです。
 今号掲載の詩は5編。 「レンジでチンした猫。//ギーギー扉を引っ掻いてうるさいからサランラップでぐるぐる巻きにしてそれでも暴れるからヒゲとシッポをちょんぎったら私のことまで引っ掻くから関節全部潰したの!」。
       ※
 秋亜綺羅の前号の「国際風の会議」 という詩は、震災を書いたのだろうとよくいわれますけれど、震災の1か月も以前に書いたものです。 ブログなどでは、「預言書」だと、すこしく騒がれたりしました。
 わたしの今号の詩は、震災が書かせたものであることは認めますが、震災を書いたものではありません。
 山奥で詩を書きたくなったり、恋をしたとき詩を書きたくなったり…。 それと同じで、進入禁止を無視して対峙した被災の地で、書きたくなったものでした。 それにしても、書き出せるようになるまで、3か月以上もかかりました。
 詩なんて、もう書けないんじゃないだろうか、と思ったりもしました。
 震災などという、ちっぽけな出来事なんかじゃなく、ものと生命、ことと死について、がむしゃらに書きたかったのだろうと、わたしは思いたいのです。
 「三月十一日、午後三時十一分/そのとき、わたしの家の金魚鉢には/海が近づいていた//金魚鉢に水平線が飛び込んで来た/そこには、水溶性の海岸があった//水平線は赤いデニムをひき裂き/一匹の金魚を犯した」。
       ※
  ブログの編集ページは、秋亜綺羅の 「大震災──仙台から②」。
  
著者について
恋藤葵=1994年生。 宮城県石巻市在住。
  石巻北高校演劇部2年。
 
谷内修三=詩人、評論家。 1953年生。 福岡市在住。
  詩集に 『The Magic Box』 『最上の愉悦』 など多数。
  ブログ 「詩はどこにあるか」。
  現代詩手帖賞、福岡県詩人賞、中新田文学賞受賞。
 
野木京子=詩人、エッセイスト。 横浜市在住。
  詩誌 「スーハ!」 主宰。
  詩集に 『銀の惑星その水棲者たち』 『枝と砂』 『ヒムル、割れた野原』 など。
  エッセイ集 『空を流れる川』。
  H氏賞受賞。
 
高取英=劇作家、演出家、マンガ評論家。 1952年生。 大阪市在住。
  寺山修司研究の第一人者。
  劇団月蝕歌劇団主宰。
  映画の脚本、監督も。
  京都精華大学マンガ学部教授。
  評論集、戯曲集、小説、エッセイ集など著書多数。
 
藤川みちる=女優、詩人。 1991年生。 仙台市在住。
  YS賞受賞。
 
秋亜綺羅=詩人。 1951年生。 仙台市在住。
  名まえは、 40年まえ高校生のとき、 寺山修司がつけてくれたもの。
  角川文庫の 「書を捨てよ、町へ出よう」(寺山修司) に、
  ハイティーン時代に書いた詩 「百行書きたい」 が載っている。
  詩集 『海!ひっくり返れ!おきあがりこぼし!』 (1971年)。
 
 

目次


  恋藤葵 「いっぱい食べられた」
  谷内修三 「鏡の上の首」
  野木京子 「うみ」
  高取英 「神は歌うか」
  藤川みちる 「ツギハギ人形」
          「のっぽの影法師」
         「飾られた言葉」
         「お願いだから、イイ子にしてて」
          「標本になりたい」
  秋亜綺羅 「津波」    

ブログ=ココア共和国
  秋亜綺羅 「大震災──仙台から②」
 
  装丁=柏木美奈子
 
 
   

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅