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詩誌 「詩想」 佐藤幸雄追悼特集号が出ました。

詩ってなんだろう
09 /07 2011
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 こんにちは。 秋亜綺羅です。
 宮城県詩人会主催の第1回YS賞は、「季刊ココア共和国」 の常連、19歳の藤川みちるでした。
 その、「YS」 というのは、詩人・佐藤幸雄のイニシャルです。
 佐藤は、2008年に60歳で亡くなっています。
 わたしといっしょに、高校生などハイティーン詩人たちをいつも見つめてきました。
 
 きょう、佐藤幸雄が主宰していた  「詩想」 23号がしばらくぶりに出ました。
 佐藤幸雄追悼特集号です。
 佐藤が亡くなって2年半以上も過ぎてしまいました。
 わたしは 「詩想」 の同人じゃないのだけど、文章を書いています。
 
 2年近くまえに書いたものなので、どうかな。 と思いましたが、
 「詩ってなんだろう」 とふと考えることがあったときなど、
 ちょっと読んでみてもらえたら、うれしいです。
 
 現在の 「詩想」 を主宰する詩人・伊深久男の許可をもらったので、
 全文、掲載します。
 
 
 
 
 
 
佐藤幸雄論まで時速4キロ
                                         秋亜綺羅
 
 
 
  幽霊というのはほんとうは夜、眠っているものなのだ。
  幽霊に会ったなどというのは、夜眠られないひとたちの、嘘に決まっている。
  ぐっすり眠っている幽霊を見た、というならばともかく
 
 
 と書いたわたしの詩を見て、佐藤幸雄は 「眠れない」 じゃないのかな。 と切り出した。 「いや、眠れないは典型的なラヌキことばでしょう」 とわたし。 それから長時間の詩論の応酬が始まる…。 佐藤はすでに、進行がんと闘っていた。
 佐藤幸雄はおおぜいのまえでは、とても愉快なダジャレおじさんだった。 とくに高村創とのおやじギャグの決闘は、つぎに飛びだすワザがわかりきったプロレスのように、感動した!
 だが、ふたりきりになると、佐藤幸雄とわたしは詩のことばかり話した。 時間がないような気ばかりしていた。
 数日後、「詩集のタイトルを決めましたよ」 と佐藤。 「眠られない人々のために」 だそうだ。 わたしはわざと、声を出して笑った。 ラヌキことばの件もあったけれど、死を宣告されたひとが、眠られないひとのために詩を書く、という逆説に、わたしは声を出して笑う必要性を感じた。
 

  眠られない人々のために      佐藤幸雄
 
  まず
  よこになり
  目を閉じてください
  すると くらくなりますね それでも
  まぶたをとじた まなうらに
  あかるいところ
  くらいところが
  あるでしょう その中の
  もっとも黒く くらいところを見詰めてください
  そのなかに全身を埋めていきましょう
  すると
  さらにくらくなりますね
  さらに
  くらいなかの
  もっと
  くらいところを
  見詰
  て
  くだ
  さい
 

 ここまで読ませてもらって、「幸雄さん、待ってください」 とわたし。
 「わたしがいま書いてる詩です」 といって、書きかけの原稿を佐藤に見てもらった。
 

  九十九行の嘘と一行の真実      秋亜綺羅
  
  目を閉じると暗闇が出来るでしょ
  その暗闇のなかで
  目のなかの目を閉じるんです
  
  ほら
  暗闇のなかに
  暗闇が見えるでしょ
  暗闇って
  かたちがあって
  わりと明るい場所だよね
 

 「盗作したわけじゃないですよ」 とふたり。 ほとんど同時に声を出したのだった。
 いま、佐藤幸雄の詩集を読み返してみると、ほかの詩の多くにも、ふたりの共通と思われるテーマや手法を読むことができるのである。
 わたしはいつのまにか、詩を一行書くたびに、幸雄さんならどう書くだろう、と思うようになった。
 だからいま、わたしの詩の一行一行は、佐藤幸雄論への一歩一歩だといえそうである。
 佐藤は、「眠られない人々のために」 のあとがきで、重要な詩論を展開している。
 

   第一詩集を出しての半年後、私は手術台に乗せられていたのです。 大腸癌との診断を受けてのこ
  とだったのですが手術を担当した医師からは、「相当の覚悟」を言い渡されました。 事態は医師の告
  げた通りに進展し、今、複数の転移にみまわれています。 否が応でも死というものを意識せざるを得
  ない立場に追い込まれた事になりますが、観念としての死ではなく、具体としての死を思いやると
  き、生というものが色めき立って私を覆い尽くすことにことになったのです。 ここに収められた詩はそ
  うした状況の中で生まれたものであることを告げなければなりません。 結果として、そうした状況下
  での機会詩ということになってしまっています。 それは私にとって、最も避けなければならない前提
  なのでした。
 

 この 「機会詩」 否定論には、わたしも全面的に同意である。
 最近は、老いも若きも、ことばで日常の出来事や心象をスケッチするだけで 「詩」 と称しているひとが多いわけだけれど、佐藤幸雄はそれを完ぺきに切り捨てているのである。 カンバスのうえのスケッチがどんなに上手になったからといって、画家にはなれないのだから。
 佐藤は詩人としての自覚を捨てることを嫌った。 七〇年安保の時代に詩を書き始めたからというわけでもないが、佐藤もわたしも、メタ詩。 詩は詩のために書く、のである。
 ある日、若い詩人たちとの議論で 「詩はなぜ書くんですか」 という話になったとき、わたしは、
 「不良少年はナイフをいつもポケットに隠していないと安心できない。 わたしは世界でいちばん切れ味の鋭い、さっきまで自分で磨いていた詩を、ポケットに持って歩きたいんだよ、ね」。
 すかさず佐藤幸雄。
 「だけどしばらくすると、自分のなかで、そのナイフは錆びてくる。 新しい詩をまた書かなければ、不良をやってる自信がなくなっちまう」。
 で、話を戻して。 佐藤幸雄はあとがきで 「そうした状況下での機会詩ということになってしまっています」 と自分の詩のことを書いたけれど、そんなことはまるでない。「生というものが色めき立って私を覆い尽くす」 と自ら書くように、「死」 が 「生」 を立ち上げていくという佐藤幸雄のロジックは、新しい世代に読み継がれるのにふさわしいと思う。 寺山修司も語ったように 「死」 は 「生」 のなかにしか存在しないのだから。
 佐藤の詩は、わたしの詩もそうだけれど、比喩を嫌う。 直喩はもちろん、暗喩も、である。 反語や二律背反、逆説から出発して、いままで行きつけなかった場所へ行こうと試みるのである。 逆説を超える手法を捜すのだ。
 佐藤幸雄の詩がわたしより優れているのは、わたしの場合、方向を変えずに目的地に突っ込むわけだけれど、佐藤の詩は、ユーモアをおみやげにして、元の位置に戻ってくるのである。
 最初に引用した 「眠られない人々のために」 の後半は以下のように続くのだった。
 

  それをくりかえすと
  いつのまにか眠れます
  ただし
  それと反対の
  過程を経て
  めざめる
  わけでは
  あり
  ません
  めざめない
  ことが
  ある
  こと
  も
  知っていてくださいね
 

 さて。 わたしだって幸雄さんと詩論ばかりやってたわけじゃないぞ。 ふたりの会話で覚えているおやじギャグをいくつか…。
 
 幸雄さんの症状が末期だ、と聞いたとき。
 わたし 「幽霊は自分が死んでいることを知らないとします。 あなたが幽霊でないことを証明しなさい」
 幸雄 「いや、いま幽霊かもしれない。 幽霊だってことを、どうすれば信用してもらえるんだ」
 
 詩集刊行の打合せが、午前にあった。
 幸雄 「おはようございます。 秋さんは意味のないあいさつは嫌いでしょうけど…」
 わたし 「おはようございます。 死ぬのはちょっと早すぎますよ、というくらいの意味です」
 
 幸雄さんから快気祝いに 「お花の商品券」 をもらった。
 わたし 「ほんものの花は、にせものの造花だ」
 幸雄 「ほんものの造花は、にせものの花だし」
 
 佐藤幸雄は1948年、仙台に生まれている。 わたしの3年先輩である。 70年安保の時代に仙台で詩を書きはじめたふたりは、こんなに詩論も近いというのに、なぜ出会わなかったのだろう。
 出会いは、それから35年後の2005年になるのである。 それまでわたしは佐藤幸雄を知らなかったし、佐藤もわたしを知らなかったと思う。
 だけどそして、これからはずっといっしょに、詩をやれたはずだったのに。
                                               (2009・11・02脱稿)

 
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コメント

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No title

ご訪問、ありがとうございました(*^_^*)

足跡より、遊びにおじゃましました☆

No title

履歴より失礼致します

とても素敵な合致ですね

想念での繋がりを感じました

No title

こんばんは、ふうと申します。
ご訪問、コメントありがとうございました。
だいぶ前の記事でしたので、気がつくのが遅れて
大変失礼いたしました。
40年以上前、詩の雑誌で拝見していた
詩人・秋亜綺羅さん本人に訪問していただき、
感激しております。
詩作は現在いたしませんが、読むことは続けております。
今後ともどうぞよろしく。

http://baron-fuu.blog.so-net.ne.jp/

No title

orangepekoさん。
こんにちは。
また伺います。
素敵なブログになるといいですね。

No title

airさん。
ありがとうです。
詩と写真を楽しみにしています。

No title

ふうさん。
ふうさんのブログ、
たくさんの寺山修司をしばらく見させてもらいました。
わたしの薄っぺらな雑誌 「ココア共和国」 をお贈りさせてください。

No title

>幸雄さんから快気祝いに 「お花の商品券」 をもらった。
>わたし 「ほんものの花は、にせものの造花だ」
>幸雄 「ほんものの造花は、にせものの花だし」

昨夜は、ふっと目を覚まし、
ぼんやりとした暗闇の中で・・・、
お二人のこの会話を脳の片隅で反復していたわたし。
想像力鈍いのよね・・そう思いながらNAKETEKIMASITA.

No title

言葉がない!!!!やっぱり繋がっているんです。


詩が何かについては、あまり考えては
きませんでした。

考えるのがあほらしいような気がして。

けど、これを読んで、ああ、そういうことねと
はっきり分かりました。

そうしてみるとさみしいかぎりです。
世に詩の数は激減し
詩人の数も激減してしまうことになりますね。

おまけに
死ぬし・・・

泣けてきます。

No title

はじめまして。
ぽちさんにこちらを教えていただき
お訪ねさせていただきました。
「ココア共和国」様のお名前はどこででしょう・・・
たいへんよく拝見した記憶があります。

>カンバスのうえのスケッチが上手になったからといって、
画家にはなれない
たいへん身に沁みました。
詩を描きたいと思いながら、詩にならず文字の羅列で
いつも終わってしまう。
この記事を読みあらためて「詩」を欲しました。
お訪ねできてよかったと思います。
ぽちさんとココア共和国さまに感謝。

No title

M。bunkoさん。
アマゾンでの 「季刊ココア共和国第7号」 への批評、
ありがとうございます。
あの評を見て、わたし自身、気づかされました。
こんどの震災で、多くの詩人たちは
「がんばろう」 とか [負けるな」 とか、
ことばで 「震災」 と闘おうとしているようです。
だけどわたしがこの 「津波」 を書くために取材した限りでは、
だいじなひとや家を流されたひとたちのほとんどが、
海を怨んでなどいないのです。
海とひととの物語は、こんどの津波だって例外ではなく、
とてもいとおしく、とてもせつないものなのです。

わたしはこの 「津波」 を、いとおしさと、せつなさだけで描き通した。
それが、文子さんの文章を読んで自覚できました。

この悲惨な物語に、いとおしさと、せつなさを表現することは、
政治や社会では、許されることではないでしょう。
だからこそ、詩くらいは、詩だけは許されなければ、
ひとのこころまで、荒廃してしまうと思うのです

No title

ココア共和国さんこんにちは。
お礼なんか言われてしまうと、少し恥ずかし気・・(笑)

「津波」何度もなんども読みました。
で、そこに見えて来たものは、「いとおしさとせつなさ」でした。
その対象は、流されたすべてのものに対してのことだとは
察しがつきます。
犯人にされてしまった「海」にまでも。

秋さんの、このような詩の中から
人は少しずつ少しずつ平静な気持ちを取り戻して
行ける様な気がします、よ。

No title

名犬ぽちさん。
音楽だって詩だって、みんなで楽しんでいるうちはそれでいいのだけれど、
いつのまにか、いままでだれにも作れなかった音楽や詩を、
自分の手で作りたくなってしまう。
それは信じられないくらい苦しいことだけれど、
壊すしかないと思っていた目のまえの壁が、ふとドアにすぎないことに気づく。
鍵穴を見つけて、それに合う鍵をつくり、ノブを回す。…
壁の向こうには、自分だけの世界が!… というわけです。

No title

TO-KOさん。
はじめまして。
わたしはTO-KOさんのブログ、なんどかお伺いしていますよ。
ブログ全体が一冊の詩集のようで、ていねいに編集されている。
短歌のこころが、詩のかたちになっても生きていますよね。
完成度も高いので、著名な詩人の方かな。 と思っていましたが。

ブログの詩にこんな注文は酷かもしれませんが、
たとえ一行でもけっして書き流さない。
一行でも一語でも、満足できなければ、1日でも2日でも、
1週間でも2週間でも考えつづけることです。

TO-KOさんの詩はじゅうぶんいいのに、
自分で満足していないとすれば、…
詩って、きれいなものをつくることだと思っていないでしょうか。
きれい事は、いっさい書かない。
言葉をお化粧の道具にしない。 ということでしょう。

TO-KOさんの詩はじょうずすぎると思います。
いままで書いちゃいけないと思っていた言葉を、
ありったけ解放してみてください。
へたっくそになることに成功したら、
わたしの 「季刊ココア共和国」 に詩を書いてくださいね。

No title

M。bunkoさん。
青森でのわたしの朗読は、とてもつまらないですよ。 保証します。
40年前から朗読をしていて今回、はじめて音を使いません。
音楽的な面白さと、演劇的な面白さを排除する。
それを伊藤文恵と確認したところです。
伊藤文恵にとっても、わたしにとっても音のない世界は恐怖です。
それは詩にとっては舞踏という肉体だけを、
舞踏にとってはことばという観念だけを頼りにするしかありません。
観客にとってはたぶん退屈でしょう。
観客のことなどかまっちゃいられないほど、
ふたりは不安を楽しんでいます。

No title

直喩でも暗喩でも、比喩では、場所は変わらない。
反語や二律背反、逆説から出発して、いままで行きつけなかった場所へ行こうとする。 逆説を超える手法を捜す。
…って、なんか納得です。

「季刊ココア共和国第7号」を読ませていただいて、
日常的ではない言葉の使い方で、
日常的な言葉の使い方では到底、表現できないところまで
行くんだなあ…。
詩って、そういうふうに未知の表現に切り込んでいくんだなあ…。
と、感じていたので、とっても、納得したわけです。

No title

ココア共和国さん。
青森、ますます、行かなくっちゃ~~、って気に。
お二人の邪魔をしに、ね。
ワクワクしてきました。
宮内文子

No title

はじめまして。ご訪問ありがとうございます。お二人の会話がとても素敵です。言葉って大切ですね。詩の流れ方というか、行間の間のとり方に、はっとさせられます。

No title

SAIKAさん。
はい。 そのとおりだと思います。
それにしても、SAIKAさんのブログって、挑戦的ですよね。
すごい、楽しみです。

No title

M。bunkoさん。
つまらないことって、むつかしい。
いい歳して気づきましたよん。

No title

daigoroangelさん。
ありがとうございます。
また伺います。

秋亜綺羅

(1977.06.19)左から寺山修司、清水昶、八木忠栄、秋亜綺羅